後光厳天皇宸翰書状とは? わかりやすく解説

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後光厳天皇宸翰書状〈文和三年十二月十四日/〉

主名称: 後光厳天皇宸翰書状〈文和三年十二月十四日/〉
指定番号 78
枝番 00
指定年月日 1982.06.05(昭和57.06.05)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 古文書
ト書
員数 1巻
時代区分 南北朝
年代 1354
検索年代
解説文:  関白二條良基充てられた後光厳天皇宸翰書状で、料紙奉書紙様の楮紙用い本紙礼紙の二紙に亙って十五行に書されている。その内容冷泉為秀対し勅撰集撰集始めることを申し伝えるように指示されたもので、第一右肩にある押紙墨書によってこの書状文和三年一三五四)のものであることが判明する冷泉家勅撰撰者機会を得なかったとされていた従前の説を修正し後光厳天皇冷泉為秀撰集委ねる御意向があったことを伝えたもので、中世文学史上史料として注目される。なお、附の二條良基書状は、良基がこの宸翰添えて為秀に送ったのである

後光厳天皇宸翰書状

主名称: 後光厳天皇宸翰書状
指定番号 158
枝番 00
指定年月日 1996.06.27(平成8.06.27)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 古文書
ト書
員数 2通
時代区分 南北朝
年代
検索年代
解説文:  本書状は近時新出した後光厳天皇一三三八一三七四)の書状で、その筆跡等よりみて、両通ともに重臣勧修寺経顕宛てたのであることが判明する
 第一通は、伊勢国小倭陣にて高山十郎保光らが東大寺八幡宮前神主紀延広を殺害したことに絡む延文元年七月東大寺八幡宮神輿入洛事件に関するもので、内容から延文元年一三五六十二月書状認められる。この問題について、幕府の有力武将である佐々木導誉相談応じないため、尊氏との直接交渉必要性述べ今後の導誉に対する話の進め方などについて思い悩んでいることや、現任参議による討議が、容易にまとまらない状況などを報じている。文中の「経方卿」は、勧修寺経顕の子の経方で、参議をへて、延文元年十二月二十五日には従三位叙されている。また「教光」は武者小路教光で、従三位叙されたのは延文三年正月六日である。このことから本書状の執筆は、経方が従三位叙されてより、教光が従三位となるまでの間に限定される。しかも昇進後はじめて正月儀式に臨む経方の腹病を天皇が心配しているのは、本書状が延文元年年末書かれたことを示している。
 第二通は、本紙のみであるが、湯治日数および官位昇進に関する内容で、延文元年十二月ころから持病再発していた経顕に対し日数気にせずゆっくりと湯治療養をすべきこと、昇進については武家側の思惑で、自分意のまま処置されていないことなどを述べている。経顕の昇進は同三年であり、この書状は、延文元年を程遠からぬ時期のものと考えられる
 本書状は、天皇流麗暢達した筆致を示すとともに当時公武交渉や、公家内部動き詳細に伝え中世史研究上に価値が高い。



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