当時の大名としての評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 02:33 UTC 版)
元禄3年(1690年)頃の諸大名の評判が記されている『土芥寇讎記』では、以下のように評されている。 「長矩、智有りて利発なり。家民の仕置きもよろしき故に、士も百姓も豊かなり。女色好むこと、切なり。故に奸曲のへつらい者、主君の好むところにと随いて、色能き婦人を捜し求めて出す輩、出頭立身す。いわんや、女縁の輩、時を得て禄を貪り、金銀に飽く者多し。昼夜閨にあって戯れ、政道は幼少の時より成長の今に至って、家老の心に任す」。 「長矩は賢く、利発である。赤穂藩や民に対する統治も良いために、家臣や百姓も豊かである。女を好むことは、非常である。そのため、悪心をもったへつらう者が、主君の好むところに従って、いい女を探し求めて差し出すような者は出世する。ましてや、そうして差し出された女に縁のある輩は時を得て出世し、富を得る者が多い。昼夜閨で戯れて政治は子供の頃から成長した今になっても、家老に任せている」 同じように『土芥寇讎記』で評価されている同時代人での越前福井藩の松平昌親が大悪の無道人、備前岡山の池田綱政が愚闇の将、出羽庄内藩の酒井忠直が闇将、大和郡山藩の本多忠平が愚将、近江膳所藩の本多康慶が前代未聞の悪主と評されるなど、徳川一門や譜代でも悪い・愚将などの評価がはっきりとなされ、悪い評価も多い中では、浅野長矩は前半の評価としては比較的褒められている部類に入る。しかしそれ以降では、女色を好むことや政治のやり方などについて非難されており、全体的な評価としては諸大名の中で中の下ほどの評価がなされている。 ただ、浅野長矩の女色を好むという評価については、『土芥寇讎記』以外の同時代の史料に女色を好むといったことが書かれているものが見られないことや、長矩が当時としては珍しく側室を持った記録などが見られない藩主であったことなどから、懐疑的に見る必要がある。また『土芥寇讎記』では、色を好む(男色・女色を問わず)場合でも、世継ぎをもうけなければならない藩主という立場などから、容認される大名も随所に見られるため、それらの評価基準についても様々な論考がなされている。 元禄14年(1701年)に書かれた『諫懲記後正』という、『土芥寇讎記』と同様に当時の諸大名の評価を記したものには、以下のような内容などが書かれている。 「将の嗜むべきは文道である。文なき将は必ず所行が疎かになる。長矩は文道なく、智恵なく、気質は威張らず、小心にして律儀とはいえ、短慮なれば、後々所行については、おぼつかなくなるだろう。されども、長矩は、淳直にして、日常の行いは義に背くことがない。奢らず、忠誠心を重んじ、世間との付き合いもよいということならば、悪いとはいえない。先年、奥方の下女について、少々、非道の沙汰があって、この頃もっぱら世間の聞こえがよくない。すでに、この家は危うきことなりと批判していたが、なんなく事がおさまった。元来、長矩はいい政治が少ないので、領民からむさぼり、所行にも少々よくないことがあるのではないかといえる。そうなれば、長矩の行く末はとても危ぶまれる」 こちらでの評価は、前半は可もなく不可もなくといったものであるが、後半は奥方の下女に対する沙汰やそれについての世間の風評、そして、政治のあり方などに非難がなされている。 このうち、奥方の下女について非道の沙汰方云々という記述については『冷光君御伝記』などから、貞享4年(1687年)の6月にあった屋敷の女中部屋の屋根に放火があった事件のことだと解釈する説がある。その事件の経過については以下の通りである。 6月5日、赤穂浅野家屋敷内御広敷女中部屋の屋根より出火、犯人は長矩室阿久利の下女2人と判明。長矩、女中の処置について町奉行北条安房守へ伺う 6月22日、長矩、帰国の暇を賜る 7月、北条安房守指図困難につき長矩、女中火付の件を老中大久保忠朝へ伺う 7月2日、長矩、江戸発駕延引の旨を老中方へ伺ったところ、指図あり。大久保忠朝より長矩へ手紙にて帰国延引と屋敷内鎮静・火の用心を指示す 7月10日、長矩、火付の件を浅野光晟へ報ず。追って返書あり 7月21日、大久保忠朝より長矩へ屋敷へ参るようにとの切紙あり。忠朝、火付女中の儀は相談の上将軍綱吉へは申上げなかったので勝手次第に江戸発駕するよう指示す
※この「当時の大名としての評価」の解説は、「浅野長矩」の解説の一部です。
「当時の大名としての評価」を含む「浅野長矩」の記事については、「浅野長矩」の概要を参照ください。
- 当時の大名としての評価のページへのリンク