張大豫の決起とは? わかりやすく解説

張大豫の決起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)

呂光」の記事における「張大豫の決起」の解説

かつて苻堅東晋大敗喫した時、元前涼君主であった張天錫東晋に亡命したが、張天錫世子である張大豫は長水校尉王穆により匿われていた。やがて苻堅長安帰還すると、王穆は張大豫を伴って河西逃走し禿髪鮮卑首領である禿髪思復鞬に庇護求めた禿髪思復鞬はこれを受け入れ、彼らを魏安郡へと送り届けた386年2月、魏安出身の焦・斉粛・張済らが兵数千を擁して挙兵し、張大豫を揟次において迎え入れて盟主据えると、昌郡へ侵攻してこれを陥落させ、太守王世強を捕らえた呂光は輔国将軍杜進討伐命じたが、杜進返り討ち遭った。王穆は呂光軍と今戦うのは得策では無く、兵を訓練し兵糧蓄えて時期を待つべきだと主張したが、張大豫は聞き入れずさらに進軍し姑臧迫った。そして撫軍将軍涼州牧を自称し、王穆を嶺西の諸郡に派遣して援軍要請した建康太守隰・祁連都尉厳純・閻襲はこれに応じて挙兵し、3の衆を擁して楊塢に割拠した4月、張大豫は姑臧城西布陣し、王穆は禿髪思復鞬の子である禿髪奚于と共に兵3率いて城南布陣した。呂光出撃してこれらを撃破し禿髪奚于を始め2万余り首級挙げた呂光諸将向けて「大豫がもし王穆の言を用いてたらば、恐らく平らげる事は出来なかったであろうな」と語ると、諸将は「大豫がどうして及びましょうか皇天明公八百の業を成そう手助けしているのです。故に大豫が良算を選択しないよう惑わせたのです」と答えた呂光大い喜び功績に応じて諸将金帛下賜した。 11月、張大豫は西郡から臨洮郡逃れ百姓4千戸余りから略奪すると、倶城に入って守り固めた387年7月呂光は彭晃・徐炅らを倶城へ差し向け、張大豫を破った。張大豫はさらに広武郡へ逃走したが、広武の民は張大豫を捕らえて呂光の下に送った呂光姑臧の市で張大豫の首を刎ねた。 王穆もまた逃走して建康郡へ向かっていたが、途中で方針改め酒泉郡攻め落とすと、この地に拠って大将軍涼州牧を自称して自立した

※この「張大豫の決起」の解説は、「呂光」の解説の一部です。
「張大豫の決起」を含む「呂光」の記事については、「呂光」の概要を参照ください。

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