張大豫の決起
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かつて苻堅が東晋に大敗を喫した時、元前涼の君主であった張天錫は東晋に亡命したが、張天錫の世子である張大豫は長水校尉王穆により匿われていた。やがて苻堅が長安に帰還すると、王穆は張大豫を伴って河西へ逃走し、禿髪鮮卑の首領である禿髪思復鞬に庇護を求めた。禿髪思復鞬はこれを受け入れ、彼らを魏安郡へと送り届けた。 386年2月、魏安出身の焦松・斉粛・張済らが兵数千を擁して挙兵し、張大豫を揟次において迎え入れて盟主に据えると、昌松郡へ侵攻してこれを陥落させ、太守王世強を捕らえた。呂光は輔国将軍杜進に討伐を命じたが、杜進は返り討ちに遭った。王穆は呂光軍と今戦うのは得策では無く、兵を訓練し兵糧を蓄えて時期を待つべきだと主張したが、張大豫は聞き入れずさらに進軍して姑臧へ迫った。そして撫軍将軍・涼州牧を自称し、王穆を嶺西の諸郡に派遣して援軍を要請した。建康郡太守李隰・祁連都尉厳純・閻襲はこれに応じて挙兵し、3万の衆を擁して楊塢に割拠した。 4月、張大豫は姑臧の城西に布陣し、王穆は禿髪思復鞬の子である禿髪奚于と共に兵3万を率いて城南に布陣した。呂光は出撃してこれらを撃破し、禿髪奚于を始め2万余りの首級を挙げた。 呂光は諸将に向けて「大豫がもし王穆の言を用いてたらば、恐らく平らげる事は出来なかったであろうな」と語ると、諸将は「大豫がどうして及びましょうか!皇天が明公の八百の業を成そうと手助けしているのです。故に大豫が良算を選択しないよう惑わせたのです」と答えた。呂光は大いに喜び、功績に応じて諸将に金帛を下賜した。 11月、張大豫は西郡から臨洮郡へ逃れ、百姓4千戸余りから略奪すると、倶城に入って守りを固めた。 387年7月、呂光は彭晃・徐炅らを倶城へ差し向け、張大豫を破った。張大豫はさらに広武郡へ逃走したが、広武の民は張大豫を捕らえて呂光の下に送った。呂光は姑臧の市で張大豫の首を刎ねた。 王穆もまた逃走して建康郡へ向かっていたが、途中で方針を改めて酒泉郡を攻め落とすと、この地に拠って大将軍・涼州牧を自称して自立した。
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