張天錫の権力掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 08:56 UTC 版)
宋混は輔政の任に就くと、涼王の称号を廃して涼州牧に戻すよう、張玄靚へ請願した。宋混は361年4月に病没し、その遺言により彼の弟の宋澄を領軍将軍に任じて輔政を委ねた。しかし同年9月、右司馬張邕は宋澄の専政を妬み、挙兵して宋澄を一族もろとも誅殺した。張玄靚は張邕を中護軍に任じ、叔父の張天錫を中領軍に任じ、両者に輔政を委ねた。 張邕は傲慢で自分勝手な人間として知られており、皇太后の馬氏と密通し、徒党を組んで政治を専断し、多くの人を処刑したので、国の人々はこれを嘆いた。これを受けた張玄靚の叔父の張天錫は、腹心である郭増・劉粛・趙白駒と共謀してクーデターにより張邕を自殺に追い込み、その一族郎党を全員誅殺した。張玄靚は張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、輔政を委ねた。 12月、それまでの西晋からの引き継ぎであった建興49年の元号を改め、升平5年として東晋の年号を奉じた。東晋より詔が降り、張玄靚は大都督・隴右諸軍事・涼州刺史・護羌校尉・西平公となった。また、南州を改めて祁連郡とした。張玄靚の母であった郭氏は、張邕の死に伴う張天錫による朝政の専断を憎み、大臣の張欽らと共謀して張天錫の誅殺を目論んだ。しかしこの計画は事前に露見し、張欽らはみな誅殺された。張玄靚はこれにより己の身を案じ、君主の地位を張天錫へ譲ろうとしたが、張天錫は受けなかった。
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