張作霖への隔意、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 22:45 UTC 版)
軍備を再建した張作霖が再び北京政府中央に介入しようとすると、王永江はこれに反対したが、結局聞き入れられることはなかった。1924年(民国13年)10月、奉天派が第2次奉直戦争に勝利した後に、王は黄郛臨時内閣の内務総長に任じられた。まもなく同内閣が崩壊したため、王も辞職している。1925年(民国14年)2月、善後会議議員となった。 1926年(民国15年)2月、王永江は各職を辞任して、故郷に戻った。その後も、張作霖の武断政策を諌め、民力休養を勧める文書を奉呈し続けたが、受け入れられることは無かった。また、張も王に政務復帰を望んだが、王は固辞し続けている。晩年の王は、詩作、易経・管子研究、医学などに関して著作を残した。 1927年(民国16年)11月1日、金州にて病没。享年56(満55歳)。
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