幾何学抽象芸術の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/23 00:06 UTC 版)
「幾何学構成的絵画」の記事における「幾何学抽象芸術の変遷」の解説
1917年、ロシア革命が起きた当時、人民の手による政治が起こるであろうという希望から、芸術界にとっても非常に明るい時期であった。ウラジーミル・タトリンがパリのピカソのアトリエを訪ねた様に, ロシアを含んだヨーロッパでは作家同士の交流が盛んに行われるようになった。 1920年代に入ると、絵画運動の交流はさらに盛んになり、1922年、 デュッセルドルフで開催された具体美術展アール・コンクレ (Art Concret) 展には、デ・ステイルやロシア構成主義のメンバーを初めとするヨーロッパの作家達が、ロシア、オランダ、ベルギー、フランスより集まり、その後、抽象絵画の作家達がパリに集中することになる。 1930年、ミシェル・スーフォール (fr) とホアキン・トレス・ガルシア によって組織された、「円と正方形展」 (fr) には、モンドリアン、ジャン・アルプ、カンディンスキー、ファントンゲルロー、ペブスナー、ナウム・ガボ、ゾフィ・トイベル・アルプ (en) 等、多くの幾何学構成的抽象作家が参加した。その後、スフォールが体調を崩し南仏で長期の療養が必要となった。 翌1931年、「円と正方形展」を受け継いだファントンゲルロー、オーギュスト・エルバン、テオ・ファン・ドースブルフによって組織された「アブストラクション・クレアション展」 (en) は、1936年まで継続され、ヨーロッパの多くの幾何学構成絵画の作家達がパリに結集することになり、大きな流れを築くことになる。 その後、「アブストラクション・クレアション展」の継続の形で、1936年、第1回「サロン・デ・レアリテ・ヌーヴェル」 (en) が開かれたが、第二次世界大戦が勃発、翌年からは、閉鎖される。 バウハウスも閉鎖され、グロピウス、モホリ=ナジ、レジェ、モンドリアン、ブルトン、シャガール等、多くの芸術家達はナチスの迫害や戦火を逃れようとニューヨークや南米、更に世界各地に渡った。 1937年、渡米したモホリ=ナジはシカゴにニュー・バウハウスを開校する等、アメリカに渡った多くの作家の影響でニューヨークの作家達が大きな流れを築き、アメリカ現代アートに多くの影響を及ぼしている。
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