并州失陥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 02:07 UTC 版)
316年3月、代王拓跋猗盧が長男の拓跋六脩に殺害され、拓跋普根が拓跋六脩を討伐して後を継いだ。だが、この一件により国中は大いに乱れ、拓跋部の民と晋や烏桓から帰順した人が互いに殺し合うようになった。拓跋猗盧の腹心として長年仕え、衆望を集めていた左将軍の衛雄と信義将軍箕澹は、このような事態に陥ったので、劉琨へ帰順しようと謀った。そして、人質として派遣されていた劉琨の子の劉遵と共に、晋人や烏桓人3万世帯と牛馬羊10万頭を率いて劉琨へ帰順した。劉琨はこれに大いに喜び、自ら平城へ出向いて彼らを迎え入れた。これにより、劉琨の勢力は再び強大になった。 8月、長安が劉曜に包囲され、遂に愍帝は降伏し、西晋は滅亡した。 11月、坫城を守る東平郡太守韓拠が石勒に包囲され、劉琨に救援を要請した。劉琨は代から新たに得た精鋭を用い、石勒を威圧しようとした。箕澹と衛雄は「新たに得た兵は、確かに晋人ではありますが、長らく荒廃した土地で生きていました。恩信を学んでおらず、彼らを扱うのは難しいでしょう。今回得たのは鮮卑の一部に過ぎず、外には牛羊の如くの残胡がおります。今は関所を閉ざして固く守り、農業に励んで、充分に義を施してから用いるべきです。それでこそ功を立てることができるでしょう」と諫めた。劉琨はこれを聞き入れず、箕澹に歩兵と騎兵2万を与えて前鋒とし、劉琨自身は後詰となった。石勒は険阻な地に拠り、あたかも山上に兵がいるように見せかけ、前方二カ所には伏兵を置いた。箕澹は石勒軍を追って深入りし、伏兵に襲撃されて大敗した。箕澹と衛雄は代に奔り、韓拠は城を捨てて逃走した。この敗戦により并州の地は震撼した。この時期、日照りが続いたので劉琨軍は大いに窮し、次第に防衛すらままならなくなった。 12月、并州司空長史李弘が反乱を起こし、并州ごと石勒に降伏した。劉琨は広牧に駐軍していたが、これを聞くと進退に窮した。これを受け、段部の段匹磾は使者を派遣して劉琨を招聘した。段匹磾は朝廷より幽州刺史に任じられており、以前から劉琨の下へ使者を送っては共に晋室を助けたいと語っていた。劉琨は兵を率いて飛狐口を通過し、段匹磾の本拠地薊城に入った。段匹磾と劉琨は互いに尊重し合い、婚姻関係を結んで義兄弟の契りを交わした。
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