幕末の騒動
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1860年(万延元年)、当村と中村の小作人が共同して、中村田地の小作につき宛米一割人分の用捨を地主に要求する小作騒動を起こした。 1867年(慶応2年)、西宮から始まった米安売り騒動は芝村が発端という。
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幕末の騒動
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蒲生峠付近では、幕末の山陰道鎮撫総督にまつわる騒動が記録されている。1868(慶応4)年1月末の鳥羽・伏見の戦いのあと、明治新政府は東日本攻略のため東海道、東山道、北陸道の鎮撫使を任命して派遣した。同時に、万が一徳川幕府方との争いが劣勢となった場合に備えるたため、西園寺公望を山陰道方面の鎮撫総督に任じ、京都からの安全な脱出路を確保するために派遣した。 西園寺公望率いる鎮撫使一行は薩長兵約360人からなり、2月に山陰道をくだってきた。これに先立ち、経路にあたる地域では住民が大量の人夫として駆りだされて準備に動員され、雪の残る峠道の整備にはじまり、沿道の墓石を残らず倒したり、休憩や宿泊に使う家屋の障子の張替えや畳替えなどが行われた。これらは費用の面でも労力の面でも周辺の村々に重い負担となった。 鎮撫隊が蒲生峠を通過したのは2月4日で、峠で昼食を取り、岩井(岩井温泉)で宿泊となった。新政府からの事前の指示では酒の提供は禁じられていたが、薩摩兵たちは冬にもかかわらず酒や酒肴を要求して暴れ、泥酔して宿泊した家屋を荒らしたり畳を焼いたりする行状だった。薩摩兵とはまともに言葉も通じないばかりか、宿の主人を呼びつけて怒鳴り散らした。隣の駟馳山峠を越えた福部村では、地元の接待責任者が自害する騒ぎとなり、その後継ぎに対して西園寺公望から金と感状が送られた。
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