岐阜電灯の設立と開業
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1889年(明治22年)12月、日本国内で5番目、中部地方に限ると初めてとなる電気事業(電灯供給事業)が愛知県名古屋市に開業した。事業者名は名古屋電灯という。その5年後の1894年(明治27年)3月、岐阜県北部の神岡鉱山に発電設備が設けられ、工場照明が石油ランプから電灯に切り替えられた。これが岐阜県で初めてとなる電灯の実用化であるが、いわゆる自家発電に属するものであり、供給事業とは異なる。その供給事業を岐阜県で最初に開業した会社が、岐阜電気の前身にあたる岐阜電灯であった。 岐阜電灯株式会社設立手続きの第一段階として、1893年(明治26年)8月4日、発起人により会社設立発起認可願が農商務大臣あてに提出された。発起人は岡本太右衛門・箕浦宗吉・桑原善吉・矢野嘉右衛門・加藤与三郎・野口代治・梅田信明・永井靖九郎の岐阜市内在住者計8名で、梅田のみ士族、その他7名は商人(平民)。当時の商法では農商務省から発起認可を得たのち株主を募集して創業総会を開き、続いて農商務省から今度は設立免許を取得、最後に株式の払込みを済ませて設立登記を完了する、という手続きが定められていたが、岐阜電灯におけるこれらの手続き執行日は不明。ただし当時の役員録には1894年(明治27年)2月28日付で設立とある。岐阜市においては、広く個人資金を集めて事業を経営するという本格的な株式会社の起業は、銀行などの金融機関を除けば岐阜電灯がその第一号であった。 設立段階における岐阜電灯の資本金は4万5000円。初代社長には発起人の中から梅田信明(元岐阜県財務課長)が選ばれ、岡本太右衛門(6代目・本家12代目。太右衛門家は鋳物業を営む旧家)・矢野嘉右衛門(香具商)・加藤与三郎(十六銀行取締役)と丹羽正道が取締役を務めた。発起人以外から唯一取締役に加わっている丹羽は先に開業した名古屋電灯の主任技師である。地元銀行である十六銀行からは、加藤のほか頭取の渡辺甚吉や取締役兼支配人の箕浦宗吉らも大株主に名を連ねる。その一方で、地域対立を反映して上加納の豪商篠田祐八郎ら市南部の有力商人は岐阜電灯設立に参加しなかった。 会社の報告書によると、会社設立半年後の1894年7月14日までに諸工事が終了、15日に発電所・電灯線施設の工事落成届を県に提出し、19日検査完了につき試運転を開始。そして第1回株主総会が開かれた7月28日に、需要家や株主・役人などを招待し開業式を挙行した。名古屋電灯と同年4月開業の豊橋電灯(後の豊橋電気)に続いて中部地方で3番目に開業した電気事業者となった。電源は火力発電所であり、市内の今川町に所在。当初の発電機は出力25キロワット (kW) のエジソン式直流発電機2台で、蒸気機関1台で発電機2台をまとめて駆動する形態であった。蒸気機関・発電機はいずれも三吉電機工場製。ボイラーは三吉製または岡谷鉄工所製で計3台設置された。新聞報道によると、電灯が非常に珍しいものであったために発電所には見物人が押し寄せ、付近には屋台が並んだという。 1894年末時点での供給成績は需要家数は241戸・電灯598灯であった。需要の増加は堅調で、翌1895年(明治28年)には1000灯へ増加、1903年(明治36年)には2000灯を越えた。この間の1901年(明治34年)に発電所の拡張を実施し、芝浦製作所製の蒸気機関1台と出力30 kWの直流発電機2台を増設した。逓信省の資料によると、岐阜電気譲渡直後にあたる1907年(明治40年)末時点では、発電機数は5台、総出力は130 kWになっている。また経営陣にも動きがあり、梅田信明に代わって最初の発起者である岡本太右衛門が自ら社長となった。役員録では1897年版(同年初頭時点)から岡本が社長(梅田は取締役)を務めるのが確認できる。
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