宗有の剣術
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剣術界に竹刀稽古が広まり、主流となっていく中で、宗有はこれに反発し、もっぱら木刀による形稽古を基盤とした組太刀の研究に打ち込んだ。のちに中西道場の宗家4世を継いだ中西子正やその弟子筋に当たる千葉周作らも組太刀を宗有から学ぶようになった。『日本剣豪100選』の著者、綿谷雪は寺田宗有について、のちに彼の門人となった白井亨とともに形剣術では日本最終の名手とし、組太刀で天下無敵といわれた人物は、この両人以後には出現しなかった、という。 千葉周作は、寺田宗有と白井亨について、「寺田氏は自分の構えたる木刀の先より火炎燃え出づると云ひ、白井氏は我が木刀の先よりは輪が出づると云ひ、何れも劣らぬ名人なり」と語っている。また、山田次朗吉は寺田と白井について「実に二百年来の名人として推賛の辞を惜しまぬ」と記している。 さらに千葉の『剣術物語』には、次のようなエピソードがある。 中西道場で竹刀稽古と形稽古の優劣が盛んに論じられていたころ、竹刀派の門人が宗有に稽古を所望した。宗有は、自分は竹刀稽古はやらないが、強いて望みとあれば素面素小手で相手をするので、君たちは防具を着けて遠慮なく打ち込むがいいといい、その言葉通り、防具を着けずに木刀を下げて道場の中央に進み出た。これを聞いた竹刀派の門人はいきり立ち、宗有の面を一打ち、と心中に念が兆したとたんに「面へくれば、摺り上げて胴を打つぞ」といわれ、それなら小手を打とうと思うと、間髪を入れず「小手へ来れば切り落として突くぞ」と宗有の声がかかった。こうして思念の動くところをことごとく読まれて未然に抑えられ、その上宗有の剣先からは火を吹くかと思われんばかりに鋭い気合が迫るので、相手はそら恐ろしくなり、満身汗だくでなにもできずに引き下がってしまった。ほかにも何人かが挑んだがみな同様な目にあい、処置なしとなった。一同はあらためて宗有の腕前に敬服し、組太刀の悪口をいう者もいなくなった。千葉は、この試合を見て組太刀の重要性を悟ったという。組太刀の達人寺田派より千葉周作に伝わった五行形が虎韜館で今も稽古されている。
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