安龍福の虚言
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以下は備辺司での証言で不自然な点や明かな作り話。 幕府が竹島(現在の鬱陵島)への渡航を禁じる旨を朝鮮の使者に伝えたのは1697年(元禄10年・粛宗23年)の正月だが、幕府が竹島への渡海禁止令を出したのは1696年1月。安龍福が隠岐へ漂着したのは1696年5月。鳥取藩に竹島渡海禁止令が正式に伝わったのは1696年8月1日である。内藤正中は、安龍福は日本人を追いかけて隠岐に漂着したと証言したが、鳥取藩の漁師たちは1696年5月にはまだ竹島渡海禁止令を知らず、彼らが5月に竹島に渡った可能性があると主張している。 日本人が松島に住んでいると言ったとある。彼は日本人を追いかけて島に上陸したとしているが、松島は明かに人が住める環境ではない。安龍福は日本人の言う松島のことを全く知らないまま松島を于山島だと思い込んでいる。 安龍福は海産物が豊富な鬱陵島に僧侶らを連れて渡ったとし、そこで偶然出合った日本人を鬱稜島から追い払い、松島に渡った日本人をさらに追い払って追いかけているうち狂風に遭い隠岐に漂着したとしている。しかし、安龍福は「朝鬱両島監税将臣安同知騎」と書いた旗や青帖裏(官服)、水晶の緒が付いた黒い布の笠、靴などを事前に用意し、役人を装って当初朝鮮本土を出発した全員で日本に向かっている。つまり、偶然出合った日本人を追いかけているうちに狂風で日本に漂着したのではなく、最初から何らかの訴願の目的で日本へやって来ている。2005年に発見された『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』には、安龍福が欝陵島で日本の漁民と遭遇したことや漂着したとの記述はなく、隠岐島での取調べに対し、安龍福は「鳥取伯耆守様へお断りの義これ在り罷り越し申し候」と訴願が目的であることが記されている。 松島は于山島で朝鮮領だとあるが、安龍福が日本に来たとき于山島を鬱陵島から北東に50里(約20km)離れた大きな島だと言っている。しかし実際の松島は鬱陵島から東南東に約92kmの地点にある断崖絶壁の小島であり、安龍福は松島の位置や大きさを全く把握していない。また当時の朝鮮の地図にある于山島も鬱陵島の北に描かれており、安龍福の証言以外松島に朝鮮人が来たという記録は全くない。 安龍福は、日本の将軍から鬱陵島と于山島の朝鮮領有の書契をもらっているのに、対馬藩が勝手に朝鮮政府に対し何度も領有権を主張する使者を送って来ているように言っているが、そうではない。対馬藩は幕府の指示に従い鬱陵島の領有交渉を行っていた。(竹島一件)1693年に安龍福が連行されたのをきっかけに鬱陵島の領有権争いが幕府と朝鮮の間で発生したのであり、対馬藩と朝鮮の間で発生したのではない。つまり、そのきっかけとなった漁夫(安龍福)に将軍が鬱陵島や于山島の朝鮮領有を認める書契を出したはずがない。また、連行された異国の一漁夫に一国の将軍が島を手放す書契を渡すはずもない。 鬱陵島や于山島の朝鮮領有を認める書契が仮にあったとしても、幕府に逆らい将軍が出した書契を対馬藩が奪い取り勝手な領有交渉をするはずがない、その様なことをしても対馬藩が罰せられるだけである。 安龍福は鳥取藩主と対座して直訴したと言っているが、当時鳥取藩主は参勤交代で江戸滞在中である。 対馬藩主の父親がやってきて息子の死罪が免れないと言ったと言っているが、安龍福が連行された時の対馬藩主はその時既に若くして他界しており、その父親も参勤交代で江戸に滞在しており、江戸から出ることはできない。 安龍福の2回目の来日時に朝鮮の役人に扮装しているが、鳥取藩では日本語を話していない。鳥取藩は朝鮮人達と話が通じないため、江戸幕府が対馬藩より通訳を派遣している。しかし、その通訳が到着するまでに、幕府からの指示で全員乗ってきた船で退去させられているため、鳥取藩と交渉したとする内容は全て作り話であることがわかる。
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