安土桃山時代
安土時代
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三好実休が亡き後、大形殿はますます妖艶さ磨きがかかり、三好氏の家臣木津城城主篠原自遁と通じ、人目をはばからぬ乱倫ぶりであったと伝わっている。これに憤慨した上桜城城主篠原長房が自遁を戒めたが、反感をかい三好長治の讒言により、上桜城の戦いとなり攻め滅ぼされてしまった。奸臣にまどわされ、忠臣だった篠原長房を討ち取った三好長治は日夜酒宴にふけり政治も混沌としていた。 三好氏が織田信長の出現によって徐々に畿内より遠ざかっていき、勝瑞城でも三好長治の信望が衰えていくと、重臣たちも離れていき、1576年(天正4年)細川真之が突如勝瑞城を出奔して自立を図ると、1577年(天正5年)に三好長治は細川真之を奉じる小笠原成助らの軍勢に勝瑞城を追われ、同年3月に長原の地で自害して果てた。しかしこれが長宗我部氏を阿波国に誘因する結果となり、1582年(天正10年)長宗我部元親の侵攻を受け、中富川の戦いとなり長治の弟・十河存保は讃岐国に敗走し、城は同年9月21日廃城となった。廃城に伴って勝瑞城を防備してきた板西城、姫田城、西条城等の支城も運命を共にした。 その後の戦いの様子は、十河城の戦い及び羽柴と長宗我部の対立を参照。 長宗我部軍によって破却された勝瑞城は徳島城築城の際に石塁や遺構の多くが持ち運ばれたという伝承が残っている。阿波国の国侍は、堺や兵庫に上陸して戦い、戦いに疲れ阿波国に帰国し傷を癒して、また海を渡る拠点となっていた勝瑞城であったが、その約240年に渡り続いた歴史に終止符がうたれた。
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