大韓民国臨時政府の復権
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「朝鮮独立運動」の記事における「大韓民国臨時政府の復権」の解説
大韓民国臨時政府主導の下の独立運動は、前述の通り1920年代中盤以降は衰退していたが、金九の主導の下再び活発に行われるようになった。金九は、1932年1月8日に李奉昌を差し向けて、天皇の暗殺を試みたが失敗に終わった(桜田門事件)。続いて金九は、尹奉吉を日本による第一次上海事変の戦勝を記念した大観兵式と天長節祝賀会に送り込み、爆弾テロを敢行させた(上海天長節爆弾事件)。以降、抗日テロ事件の首謀者として日本の警察に指名手配された金九は逃亡生活に入ったが、中国政府は臨時政府を協力対象と考え、金九を保護し、1933年には蔣介石と抗日宣戦協力に合意するに至った。 この頃、梁起鐸が1933年10月に臨時政府の大統領に選出され、1935年10月まで在職することとなった。しかし、日本軍の中国侵出に伴い、臨時政府は上海を脱出しなければならなくなり、南京や長沙を経て、1940年には重慶にその本拠を移した。重慶で国民党とアメリカの援助を得て、韓国光復軍総司令部を創設し、第二次世界大戦が太平洋戦線で拡がった1941年12月10日には対日宣戦布告(日本政府に布告文書は通達されておらず、実効性は皆無)を行ったが、日本軍とは一度も交戦することの無いまま、日本の敗戦を迎えることとなった(後述参照)。
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