上海天長節爆弾事件
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上海天長節爆弾事件(シャンハイてんちょうせつばくだんじけん)とは、第一次上海事変末期の1932年(昭和7年)4月29日に上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で発生し、民間人死者が出た爆弾テロ事件[1]。事件があった場所から虹口公園爆弾事件(ホンキューこうえんばくだんじけん)とも呼ばれる。
注釈
出典
- ^ “◉第8回◉ 「隻脚の外交官」の真実”. 日本外交協会. 2018年10月19日閲覧。
- ^ a b c d 佐々木 1985, p. 290.
- ^ 山口 1998, p. 86.
- ^ “尹奉吉炸弹制造者为中国人“向佽涛””. 聯合ニュース. (2010年4月28日) 2017年12月17日閲覧。
- ^ a b c 山口 1998, p. 93.
- ^ 山口 1998, p. 107.
- ^ 『東京日日新聞』昭和7年5月1日号外2面
- ^ 梅軒尹奉吉義士 殉国80周年記念追悼式 在日本大韓民国民団 2012/12/20
- ^ a b c d e f 山口 1998, p. 97.
- ^ a b 山口 1998, p. 98.
- ^ a b c 佐々木 1985, p. 291.
- ^ a b 佐々木 1985, p. 292.
- ^ 山口 1998, p. 129.
- ^ 金弘壹. 大陸의憤怒. p. 291
- 1 上海天長節爆弾事件とは
- 2 上海天長節爆弾事件の概要
- 3 その後
- 4 梅亭
上海天長節爆弾事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 19:49 UTC 版)
反日テロリスト尹奉吉による爆弾テロ事件。事件後、尹奉吉を教唆した大韓民国臨時政府はテロ組織として上海を追われることになった。
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上海天長節爆弾事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 04:31 UTC 版)
1932年(昭和7年)4月29日、上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で行われた天長節祝賀会の際に朝鮮人テロリスト尹奉吉が放った弁当箱爆弾により重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。海軍軍楽隊の演奏で一同君が代を斉唱している最中の出来事だった。この事件では、他に上海日本人居留民団行政委員長で医師の河端貞次が死亡し、第9師団長植田謙吉中将・第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将・在上海公使重光葵・在上海総領事村井倉松・上海日本人居留民団書記長友野盛が重傷を負っている。重光公使は右脚を失い、野村中将は隻眼となった。犯人の尹はその場で検挙され軍法会議を経て銃殺刑となるが、後年韓国政府は尹を独立運動の義士として勲章を贈っている。白川大将はテロ予防の為この会場への道中数度に亘り車のナンバープレートを交換していたと言う。また、全身に108ヶ所の傷を負いながらも、たじろぐことなく収拾の指揮に当たっていた、と現場に居合わせた軍医の宮村秀雄が証言している。 重傷の白川は手術を受け、一旦は小康を得るが、同年5月23日に容態が急変し危篤となる。日本国内では五・一五事件の騒ぎの中、昭和天皇は白川に対して、慰労の勅語を与えた。 卿上海派遣軍司令官トシテ異域ニ在リ精勵克ク任務ヲ達成シテ威武ヲ宣揚シ國際ノ信義ヲ敦クセリ朕深ク其ノ勞ヲ嘉ス その3日後の5月26日、死去。享年65(満63歳没)。第一次上海事変の功により勲一等旭日桐花大綬章並びに功二級金鵄勲章に叙され、男爵を追贈された。また昭和天皇より遺族に御製が下賜された。 をとめらの雛まつる日に戦をばとゞめしいさを思ひてにけり その内容から陸軍は士気に関わるとして、御製の公表を阻んだとされる。後年昭和天皇は、靖国神社に参拝した折に、白川の上海事変での功績を思ったと述懐している。 墓所は松山市・鷺谷墓地。東京都港区南青山・青山霊園に分骨。 白川の後嗣は長男の義正。三男の元春は陸軍航空士官学校51期、南方軍参謀・陸軍少佐で終戦を迎える。戦後は航空自衛隊に入って空将となり、航空幕僚長、統合幕僚会議議長を歴任。
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