均田制と時代区分論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:17 UTC 版)
戦前、内藤は中国史全体を理解するに当たり、旧来の王朝ごとの時代区分を批判し、後漢中期までを上古、魏晋南北朝時代から唐中期までを中古、宋以降を近世とする考えを発表した。上古・中古はそれぞれ古代・中世と言い換えて概ね間違いは無い。これに対して唐中期までを古代とする論が前田直典によって出された。 前者は宮崎・谷川らの京都学派、後者は西嶋・堀らの東京学派によって発展を遂げ、両者は激しい論争を行う(中国史時代区分論争)。 古代・中世はそれぞれ奴隷制・農奴制の時代とされる。中国史時代区分論争の中心にあったのが均田制の研究であった。両説とも唐から宋へを変革期として捉えることには変わりは無い。しかしその変化する内容が論点であり、唐代に国家・貴族・農民の三者がどのような関係にあったか、そして均田制が崩壊して以降はそれがどう変化したかを考えることが時代区分を考える際には不可欠であり、三者の関係を考えるには均田制の理解が必要不可欠であった、 京都学派は主に均田制が実際に施行される実態をあまり重視せず、均田農民の性格付けで記述した宮崎の立場のように均田農民を農奴と捉える。 これに対して東京学派は吐魯番に於ける均田制の施行状態を基に、均田制が全国的に実態あるものとして捉え、国家が農民に対して及ぼす強力な支配体制を強調する。西嶋は初めこれを「国家的奴隷制」と名づけていたが、後にこれを撤回して国家が農民に対して及ぼす「個別人身的支配」という用語を使うようになる。個別人身的支配とは国家が民衆の一人一人を個別に把握し、支配するあるいはそう志向することである。堀は西嶋の考えを更に発展させ、その成果を堀1975に纏めた。 しかしその後、時代区分論争自体が結論のでないまま下火になっていく。それ以後、均田制の研究のような社会経済史研究は全体的に下火になっていった。
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