均田への系譜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:17 UTC 版)
周代には井田制が行われていたとされる。井田制は9家を一組と成し、一家ごとに100畝の私田を給付、9家に100畝の公田を共同で耕作させる。私田から得られる収穫は民の収入に、公田から得られる収穫を国に対する税とする制度である。 前漢では豪族による大土地所有が進み、これを嫌った政府は哀帝の即位(綏和2年、紀元前7年)と共に土地の所有の上限額を決める限田制を実行しようとしたが、強い反対に遭い断念した。また武帝治世の末頃から、地方政府が困窮した民を募って官田を耕作させる経営を行い始める。 この流れを受け、漢朝を簒奪した新の王莽は土地の私有を禁じ、全てを王田(国有地)とする王田制を打ち出した。しかし剰りにも空想的な施策であり、当然ながら大地主層からの激しい反発を受けた。 後漢を引き継いだ魏の実質的な創始者曹操は戦乱で荒れ果てた土地に農民を集め、自らの軍をもって守備させ、収穫を納めさせる屯田制を実行した。 魏から禅譲を受けた西晋では280年より占田・課田制が施行される。占田・課田制は土地制限としての占田、農民に対する給付と課税としての課田という両者を備えており、均田制の前身と言えるものであった。ただし西晋が短命に終わったためにこの制度は実施期間がごく短く、また史料的な制約もあり、成果がどの程度上がったのか良く解らない。 西晋滅亡後、華北は五胡十六国時代の長い混乱期に入る。その中で徙民政策と計口受田制が行われる。徙民とは民を徙(うつ)すの意で強制的な移住政策のことであり、移住させた民に対して口(人数)を計って田の給付を行うのが計口受田制である。
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