在日朝鮮人の帰還事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/13 07:48 UTC 版)
在日朝鮮人の帰還事業(ざいにちちょうせんじんのきかんじぎょう)とは、1950年代から1984年(昭和59年)にかけて行われた在日朝鮮人とその家族による日本から朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)への集団的な永住帰国あるいは移住である。
注釈
- ^ 1959年時点での「韓国」籍は約13万人であった[1]。
- ^ 日本のハンセン氏病施設に当時750人余りの朝鮮人がいて、その内150人余りが帰還を希望していたが、北朝鮮は受け入れを拒否した[12]。
- ^ 1950年代から1960年代初頭、北朝鮮はソ連よりの豊富な経済援助により重工業、ダム建設などのインフラ整備において経済的に韓国を圧倒していた。
- ^ 1955年における在日朝鮮人の平均保護率は24.06%で、日本人(2.15%)の11倍以上だった[25]。1956年から57年にかけて法務省が実施した生活保護削減[25]後の1958年10月時点でも在日朝鮮人の平均保護率は13.3%で、日本人(1.8%)の7倍以上だった[26]。
- ^ 青山健煕は、朝鮮赤十字会が世界各国の赤十字社のような人道主義にもとづいた民間団体ではなく、朝鮮労働党統一戦線部に帰属する工作機関であることを明らかにしている[72]。青山は、この事実を2002年(平成14年)6月20日に日本外務省にレポートとして提出した[73]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『北朝鮮という悪魔』(2002)巻頭解説(佐藤勝巳)pp.14-17
- ^ 石高(1997)p.69
- ^ 「北送・人道名目の追放だった」(2004.5.26 「民団新聞」)
- ^ a b 鄭大均(2006)p.12
- ^ 朴正鎮「北朝鮮にとって『帰国事業』は何だったのか」(2005)p.185
- ^ テッサ.M.スズキ(2007)p.188
- ^ 衆院外務委員会1958-3-18
- ^ 『中野重治全集 14巻』 pp.453-457
- ^ 朝日新聞朝刊(1959.12.25)[1]
- ^ 金賛汀(2007)
- ^ 『片岡薫シナリオ文学選集2巻』(1985、竜渓書舎)
- ^ 関貴星(2003)pp.223-236
- ^ 「かるめぎ85号」
- ^ 高崎「帰国問題の経過と背景」(2005)p.39
- ^ 高崎「帰国問題の経過と背景」(2005)p.50
- ^ 북송 재일교포 10만명 - KBS NEWS(韓国放送公社)(韓国語)(KBS9時ニュース、1991年9月3日)
- ^ 小此木(1997)p.411
- ^ 高崎「帰国問題の経過と背景」(2005)p.49
- ^ 朴正鎮「北朝鮮にとって『帰国事業』は何だったのか」(2005)p.206
- ^ a b c 高崎「帰国問題の経過と背景」(2005)pp.31-34
- ^ 高崎「寺尾五郎の北朝鮮論」(2005)p.272
- ^ 柳沢滋雄「ガラパゴス政党 日本共産党の100年」(2020)p.120-125
- ^ a b c 高崎「帰国問題の経過と背景」(2005)pp.29-31
- ^ a b 朴正鎮「北朝鮮にとって『帰国事業』は何だったのか」(2005)pp.194-196
- ^ a b c d e 李泳采. “戦後日朝関係の初期形成過程の分析 ――在日朝鮮人帰国運動の展開過程を中心に――” (PDF). 立命館大学. pp. 45-48. 2016年7月27日閲覧。
- ^ 佐藤久「帰国者のその後」(2005)p.93
- ^ a b 高崎「帰国問題の経過と背景」(2005)pp.26-28
- ^ 高崎「帰国問題の経過と背景」(2005)pp.28-29
- ^ 柳沢滋雄「ガラパゴス政党 日本共産党の100年」(2020)p.121
- ^ RPニュース。
- ^ 「民団新聞」(2009.12.9)
- ^ 高崎『検証 日韓会談』(1996)pp.94-96
- ^ 高崎『検証 日韓会談』(1996)p.97
- ^ 「北朝鮮帰還三ヵ月の表情 =きょう第十船が出る= 希望者ふえる一方 民団側は“韓国視察”で対抗」『朝日新聞』1960年2月26日付朝刊
- ^ 朝日を批判する産経や読売も所詮は同じ穴の狢北朝鮮への「帰国」を煽ったメディアの無責任 メディア批評 :ロジスティクス・ビジネス LOGI-BIZ バックナンバー
- ^ かるめぎ NO.22 1998.07.01 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会
- ^ 黒田・市川(2006)p.160
- ^ テッサ.M.スズキ(2007)p.295
- ^ 「[「北」へ渡った妻たち]証言・帰還事業(中)小部屋で最後の意思確認(連載)」(『読売新聞』1997年11月6日、東京夕刊、22面)
- ^ 「帰国事業で北に渡った在日朝鮮人、最下層に分類」 (朝鮮日報 2006.8.5)
- ^ 帰還事業50年…日本人妻、途絶える便り
- ^ a b 佐藤久「帰国者のその後」(2005)pp.108-109
- ^ 青山『北朝鮮という悪魔』(2002)pp.42-47
- ^ 鄭箕海 (1995)pp.52-53
- ^ マーク・ゲイン(Mark Gayn)「教祖金日成の朝鮮」(『諸君!』1973年1月号)など
- ^ 佐藤久「帰国者のその後」(2005)p.99
- ^ a b 佐藤久「帰国者のその後」(2005)pp.115-116
- ^ 篠原常一郎『チュチェ思想入門』育鵬社、2021年8月1日、174頁。
- ^ 재일동포 북송 30년 - KBS NEWS(韓国放送公社)(韓国語)(KBS9時ニュース、1990年8月14日)
- ^ a b 青山『北朝鮮という悪魔』(2002)pp.97-101
- ^ 日本で「北朝鮮政府」を訴える―― 「地上の楽園」に騙された脱北者の闘い - Yahoo!ニュース
- ^ 内藤(2001)pp.43-45
- ^ 関貴星(1997)pp.147-179
- ^ 韓光煕(2001)pp.157-158
- ^ a b c d e f 安明哲(1997)pp.178-183
- ^ 萩原(2006)pp.175-177
- ^ 북송 일본인처 15명, 38년 만에 귀향 - KBS NEWS(韓国放送公社)(韓国語)(KBSニュース9、1997年11月8日)
- ^ 고향 방문중인 북송일본인처 15명, 북한 찬양 일색 - KBS NEWS(韓国放送公社)(韓国語)(KBSニュース9、1997年11月9日)
- ^ 재일동포 일본인처 15명, 모국 찾아(MBCニュースデスク、1997年11月10日)(韓国語)
- ^ 북송일본인처 15명, 고향방문전 4주간 합숙-북한찬양교육 - KBS NEWS(韓国放送公社)(韓国語)(KBSニュース9、1997年11月11日)
- ^ 북송 일본인처 고향방문단 귀국 - KBS NEWS(韓国放送公社)(韓国語)(KBSニュース9、1997年11月14日)
- ^ 金正恩の生母が在日朝鮮人だと明かせない北朝鮮の悩ましい事情
- ^ 「北朝鮮帰国事業で総連の責任追及 27日口頭弁論 地上の楽園、地獄だった」『産経新聞』2001年7月21日付朝刊、31面。
- ^ 「北朝鮮帰国事業訴訟:朝鮮総連を訴えた元在日男性、敗訴-上告棄却」『毎日新聞』2004年9月22日付朝刊、30面。
- ^ “「地上の楽園とだまされた」脱北者女性が朝鮮総連提訴”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2008年6月13日) 2012年10月9日閲覧。
- ^ 産経新聞2008年6月13日
- ^ “北朝鮮帰国事業の訴訟で請求棄却 「権利は消滅」と大阪地裁”. 共同通信社. 47NEWS. (2009年11月30日) 2012年10月9日閲覧。
- ^ “北朝鮮帰還事業 裁判 参加者たちの思い|NHK事件記者取材note”. NHK. NHK. (2020年3月25日) 2022年12月12日閲覧。
- ^ “北朝鮮帰還事業は「継続的不法行為」 日本の管轄権認め審理差し戻し 東京高裁”. 産経新聞. (2023年10月30日) 2023年10月30日閲覧。
- ^ 映画「東海の歌」 朝鮮国内で大反響, 『朝鮮新報』, 2010.2.5.
- ^ 同胞愛の結晶、好評上映中の映画「東海の歌」 監督、出演者、独占インタビュー, 『朝鮮新報』, 2010.2.12.
- ^ 青山『北朝鮮 悪魔の正体』(2002)pp.297-307
- ^ 青山『北朝鮮 悪魔の正体』(2002)pp.308-311
在日朝鮮人の帰還事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
1959年、在日朝鮮人の帰還事業が開始された。これは日本赤十字社が所管した、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}韓国政府による帰還拒否により帰還出来なかった[要出典]人々を北朝鮮への帰還を支援する事業で、日本政府も積極的に協力した。数十万人の在日朝鮮人が海を渡ったとされるが、「地上の楽園」と自己宣伝していた北朝鮮側の経済状況は厳しく、日本での貧困や差別からの解放を願ったとされる帰国者は一層困難な状況に追い込まれた。 独裁色を強める金日成政権は、日本からの帰国者の多くを潜在的スパイなどと見なして警戒し、その多くを処刑、あるいは強制収容所での長期拘禁に処したとされるが、定かではない。 厳しい情報統制をかいくぐって漏れてくる現地の状況を知った在日朝鮮人の間では帰国への情熱が徐々に退き、高度経済成長に伴って日本での生活状況が改善されていった事もあって、帰還事業は1960年代半ばに終了した。 ただし、帰国者の再来日は実現せず、日本国籍を所持したまま家族と共に渡航した配偶者や子どもの問題が発生した。韓国側では、北朝鮮への帰還事業を阻止するために妨害工作を計画して、新潟日赤センター爆破未遂事件が起きた。
※この「在日朝鮮人の帰還事業」の解説は、「日朝関係史」の解説の一部です。
「在日朝鮮人の帰還事業」を含む「日朝関係史」の記事については、「日朝関係史」の概要を参照ください。
- 在日朝鮮人の帰還事業のページへのリンク