在りし日の新治汲古館の姿とは? わかりやすく解説

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在りし日の新治汲古館の姿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 14:20 UTC 版)

新治汲古館」の記事における「在りし日の新治汲古館の姿」の解説

生前藤田清蒐集した資料自宅敷地内保管し、これらを地域の人の観賞供するなどしていた。藤田清死後、これらの資料より一般に公開するための施設として、息子藤田通志によって藤田家敷地内大谷石造り2階建ての1967年昭和42年3月建造された。これが私設博物館新治汲古館」である。名称は高井悌三郎命名した。この博物館により、新治郡衙跡新治廃寺跡資料始めとした藤田清蒐集した資料彼の死後散逸することなく保存された。 新治汲古館コレクションは、藤田清高井悌三郎供に発掘調査に係わった新治郡衙跡上野原瓦窯跡、新治廃寺跡発掘調査得られ資料群が最大の量を占め次いで中村盛吉との共同調査により蒐集された資料群が占めている。その他、高井悌三郎が行った水戸市の台渡廃寺発掘調査での資料など含まれ、館のコレクション総数1万点を軽く超えていた。 コレクション中には類聚国史』の「弘仁八年817年十月新治郡火災に遭ひ、不動倉十三字又焼失穀物九千九百九十石焼かれた」との記述の裏付けとなった郡衙跡から出土した焼けてになったコメ、など貴重なものもあった。 これら資料には藤田清及び館の支援者である「常総古文研究所」によって、蒐集した場所や年月日等の情報付けられており、資料価値高かった展示構成1階新治郡関係資料を、2階に「常総古文研究会」が収集した資料展示しており、重要な資料について内容的にレベルの高いキャプション付けられていた。 館の初代館長自身考古学研究行っていた藤田通志で、2代目その子息が継いだ。また1989年平成元年4月1日に館の収蔵品整理研究を行う「常総古文研究所」が茨城県立歴史館阿久津久らの当時若手研究者によって結成され、館の運営協力した。「常総古文研究所」は初代所長藤田通志務め藤田通志死後の1996年11月28日からは高井悌三郎2004年死去するまで務めている。 館の見学無料で、見学には事前連絡が必要であった新治汲古館芳名帳には、梅原末治後藤守一相沢忠洋らの名が記されており、考古学関係者の間では知られ施設であったことが窺える2002年7月20日から9月16日開催茨城県立歴史館特別展考古紀行いばらき考古学に魅せられた人びとー」では新治汲古館資料と共に藤田清中村盛吉業績紹介されている。

※この「在りし日の新治汲古館の姿」の解説は、「新治汲古館」の解説の一部です。
「在りし日の新治汲古館の姿」を含む「新治汲古館」の記事については、「新治汲古館」の概要を参照ください。

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