名古屋電力設立
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地元の岐阜県加茂郡では、兼松が衆議院議員となる前から木曽川を利用する水力発電計画が持ち上がっており、1897年(明治30年)に最初の水利権出願がなされていた。この計画はその後しばらく停滞していたが、計画を有利であると判断した兼松が参入してから実現に向けて動き出す。まず兼松は同じ岐阜県出身で在京の実業家岩田作兵衛らを計画に誘い、次いで名古屋を訪れて当時名古屋商業会議所会頭の奥田正香ら名古屋財界の協力を得た。水利権許可後の1906年(明治39年)2月、東京・名古屋の実業家の出資によって資本金500万円にて名古屋電力株式会社が発足、奥田正香が社長に就任し、兼松は取締役の一人となった。 名古屋電力は1908年1月、加茂郡八百津町において八百津発電所の建設に着手する。発電所出力は1万キロワットで、発生電力を名古屋方面へ送電する計画であった。その名古屋では、旧尾張藩の士族が中心となって設立した名古屋電灯が1889年(明治22年)に開業し、以来電気の供給を行っていたが、新興の名古屋電力と在来の名古屋電灯では、発電所の規模と会社の規模のどちらも名古屋電力が優っていた。しかし名古屋電力は難工事による工事費の増大と日露戦争後の不況によって資金不足に陥ってしまう。名古屋電灯側では名古屋電力との不利な競争を未然に防ぐべく、常務取締役となったばかりの実業家福澤桃介が中心となって名古屋電力の合併に向けて動き出し、その結果1910年(明治43年)10月に両社の合併が成立した。合併後の11月、兼松は名古屋電灯の取締役に選任され、直後に福澤と交代して同社常務に就任した。 名古屋電力設立を契機として兼松は奥田正香に接近、以降しばらく奥田の下で活動することとなり、奥田腹心の実業家「四天王」の一人となった(「四天王」は兼松のほか鈴木摠兵衛・上遠野富之助・安東敏之)。具体的には、1908年1月に奥田が理事長を務める名古屋株式取引所の理事となり、翌年3月には株式取引所を代表して商業会議所の議員となって奥田の補佐役となった。なお「四天王」のうち鈴木や上遠野は財界の正道を行くようなタイプであったが、兼松や安東は裏道を通って仕事をする「黒幕の人」といったタイプであったという。 そのほか知多半島における鉄道敷設計画に岩田作兵衛らと参加し、1910年11月に発足した愛知電気鉄道(初代社長岩田作兵衛、名古屋鉄道の前身の一つ)の取締役にも就任した。
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