反共アジア外交の旗手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/23 09:19 UTC 版)
「ウォルター・ロバートソン」の記事における「反共アジア外交の旗手」の解説
アイゼンハワー政権の成立直後の1953年3月、ロバートソンは極東担当国務次官補に任命される。この任命には親台派として知られ、当時下院外交委員会極東小委委員長を務めていたウォルター・ジャッド(en:Walter H. Judd)の強い推薦があったとされる。4月の着任以後約6年半、ロバートソンは米極東政策の実務に当たることとなる。 ロバートソンは強固な反共主義者であり、アジアで共産主義勢力に対する「巻き返し(Rollback)」政策の実行を支持していた軍部タカ派のアーサー・W・ラドフォードなどとも親しい関係を築いた。執務室には当時アジアを代表する反共主義政治家であった李承晩の書を飾っていたといわれる。しかし、前任者であったジョン・アリソンは回想録でロバートソンの政策が反共主義に傾きすぎ、「戦後アジアの諸問題すべてを、米国の死活的利害に対する、潜在的ではなく、差し迫った共産主義の脅威という側面からとらえていた」と厳しい批判を与えている。 ロバートソンは中華民国の擁護と中華人民共和国への強硬姿勢を堅持した政策担当者として知られ、同時代的にも「蒋介石の忠実な盟友」と称された。1959年6月、持病の悪化により職を退き、翌7月には中華民国政府から二等卿雲勳章を授与された。1970年に没し、個人文書はヴァージニア歴史協会に保管されている。
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