反共右派として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 14:20 UTC 版)
その後、居正は広州で孫文の護法運動に参与する。1919年(民国8年)10月10日、中華革命党が中国国民党に改組されると、居正は総務部主任兼軍事委員に任命された。1922年(民国11年)5月、広東軍政府で内務部長に任命される。1924年(民国13年)1月、国民党第1回全国代表大会で、中央執行委員に選出(その後、常務委員に選出)された。しかし居正は孫文の三大政策、特に聯ソ聯共路線に反発し、突然広州を離れ、上海に引きこもってしまう。 1925年(民国14年)3月12日に孫文が北京で逝去すると、居正は北京へ急行し、喪に服した。しかし、上海で章炳麟(章太炎)と「辛亥倶楽部」を組織するなど、国民党の聯共聯ソ路線には依然として服さなかった。同年11月、居正は、鄒魯・謝持・林森らと北京の西山碧雲寺で独自に国民党第2回全国代表大会を開催し(西山会議)、三大政策反対と反共を公開で宣言した。
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