包囲の開始
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「スタンウィックス砦包囲戦」の記事における「包囲の開始」の解説
セントリージャーは先ず砦の前で戦いの衣装に身を包んだインディアンを含め示威行進を行うことで、砦の守備隊を怖がらせようとした。これが失敗すると、バーゴイン将軍が書いた宣言書を持たせた使節を派遣した。ガンズヴォートは回答を拒否した。セントリージャーは続いて包囲戦の準備を始め、正規兵と砲兵は砦の北にある小高い位置を陣取らせ、インディアンとロイヤリストの大半はその南に着かせた。モホーク川沿いにはインディアンに哨戒線を張らせた。 セントリージャーの砲兵隊は、タイコンデロガ砦陥落後にバーゴイン本隊に仕掛けられてその歩みを遅らせた戦術にあって難渋していた。ガンズヴォートとその部隊はイギリス軍が来る森の道に体系的に木を切り倒しておいた。セントリージャー隊は大砲を進めるために道を切り払って進む必要があった。この作業のために部隊の250名が動員され、実際に砦を取り囲んだのはインディアンが大半になった。 8月5日、セントリージャーはジョセフ・ブラントの姉モリーから、大陸軍の援軍がモホーク川を遡って来ているという情報を得た。
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包囲の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 05:03 UTC 版)
プロクターの部隊は4月26日にモーミー川河口で上陸した。その部隊はロイヤル砲兵隊31名、第41歩兵連隊423名、ロイヤル・ニューファンドランド連隊63名、その他の部隊16名、カナダ民兵462名で構成されていた。更にショーニー族インディアン指導者テカムセとワイアンドット族酋長ラウドンヘッドが率いる約1,250名のインディアン戦士がいた。大砲はデトロイトで捕獲した24ポンド砲2門、軽量砲9門、9ポンド砲を搭載した砲艦2隻だった。 イギリス軍がモーミー川を遡り、砲台を設置するまでに数日を要した。これらの大半は北岸で行われたが、1つだけは南岸で設置された。インディアンの大半も南岸におり、砦を密かに探っていた。イギリス軍が砲台の設置を終わると、ハリソンは砦の内側に高さ12フィート (3.6 m) の柵と盛り土を急造するよう命令した。イギリス軍の砲台は5月1日に砲撃を開始したが、砲弾の大半は柵と盛り土の湿った土にめり込んだだけで無害だった。
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