包囲の終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 05:03 UTC 版)
5月7日、正規兵捕虜の交換とケンタッキー民兵捕虜の仮釈放の条件が協議され、正式にイギリス兵捕虜と交換されるまで、これらの捕虜は軍事行動をしないという誓約の下にサンダスキー川まで護送された。これと同じ日にプロクターの砲兵が砲撃を再開したが、インディアンの大半は戦場を離れ、カナダ民兵はその農場に戻ることを切望していた。再開された砲撃でもほとんど効果はなく、砦の守備隊はこの時点で包囲側の勢力を上回っていた。プロクターは5月9日に包囲を解いた。包囲戦全体でのアメリカ軍の損失は戦死160名、負傷190名、負傷後の捕虜100名、捕虜530名、不明6名、合計986名となった。歴史家のジョン・サグデンは、包囲戦全体でのプロクター軍のインディアンを含まない損失は、戦死14名、負傷47名、捕虜41名としており、5月5日以後に1名が捕まったことを示している。
※この「包囲の終了」の解説は、「メグズ砦包囲戦」の解説の一部です。
「包囲の終了」を含む「メグズ砦包囲戦」の記事については、「メグズ砦包囲戦」の概要を参照ください。
包囲の終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 15:56 UTC 版)
詳細は「ドーチェスター高地の要塞化」を参照 1776年3月早く、タイコンデロガ砦の戦いで大陸軍が捕獲した重い大砲がボストンに運び込まれた。これにはヘンリー・ノックスの困難さを克服する働きがあった。わずか1日で大砲がイギリス軍を見下ろすドーチェスター高地に据えられると、ハウの軍隊は耐え難いものになった。ハウはドーチェスター高地を取り返す作戦を立てたが、暴風雪のために実行できなかった。イギリス軍は、出発を妨害すれば町に火を付けると脅した後で、1776年3月17日にボストンから撤退し、ノバ・スコシアのハリファックスに一時待避した。ボストンを包囲していた地元の民兵は解散し、4月にワシントンはニューヨーク市を守るためにその軍の大半を移動させ、これがニューヨーク・ニュージャージー方面作戦の始まりとなった。
※この「包囲の終了」の解説は、「ボストン方面作戦」の解説の一部です。
「包囲の終了」を含む「ボストン方面作戦」の記事については、「ボストン方面作戦」の概要を参照ください。
- 包囲の終了のページへのリンク