かとう‐は【加藤派】
加藤派(かとうは)
正式名称は、宏池会と言う。1998年の暮れに、加藤紘一が前会長の宮沢喜一から領袖の座を引き継ぎ、加藤派と呼ばれるようになった(以前は宮沢派と呼んでいた)。
宏池会は、吉田茂にはじまり、池田勇人、大平正芳などの流れを汲んでいる。官僚出身者が多く、政策に明るい人材を擁する派閥である。
1999年秋の自民党総裁選で、加藤氏は山崎氏とともに総裁候補として出馬し、当時の小渕政権に対し批判的なスタンスを取った。結局、小渕恵三の再選が決まり、加藤氏は敗れた。このときから、加藤派は非主流派に転落し、自民党執行部との間に一定の距離を置くようになった。
加藤氏自身は、山崎派会長の山崎拓、森派会長の小泉純一郎とともに YKK トリオと呼ばれる盟友である。山崎派との協力関係は強いが、森派との関係は微妙である。
(2000.11.20更新)
加藤派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 10:06 UTC 版)
当時、世論の森政権・自民党への支持が極端に低かったことから、加藤への期待感がとても大きかったにも関わらず、離党は拒否し、投票も棄権したことにより逆に加藤への失望感や批判が渦巻いた。 加藤派の人数が大幅に減少し第2派閥から第6派閥に転落したこと、内閣改造と党役員改選によって加藤派の小里貞利が総務会長を離任し、森田一や吉川芳男が閣僚離任したことによって、加藤の党内影響力が大幅に低下した。翌年、かつての盟友小泉が総理総裁に就任すると、靖国参拝問題で助言するなど、外交経験の乏しい小泉の相談相手として一定の存在感を回復した。しかし翌2002年に政治資金問題を報じられ、秘書逮捕などによって派閥会長辞任、党離党、さらには議員辞職に追い込まれ、総理総裁候補から完全に脱落した。 議員辞職後の衆院選で議員当選して国政に復帰。自民党に復党し、加藤派の後継である小里派の最高顧問に就任したが、加藤及び小里派の政界影響力には既に限界があった。この様なことから、小里派も派の看板を将来の総裁候補と呼ばれていた谷垣に切り替えた。谷垣は小派閥出身者ながらも小泉内閣で財務相に就任しポスト小泉の一人として認知されるようになった。 加藤が倒閣運動を起こさなければ、派閥分裂は起こらず第2派閥領袖としての地位を保ち、2001年2月のえひめ丸事故を契機とするポスト森において、加藤が総理総裁になっていたと見る向きも多い。
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