初代「ヨークタウン」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/24 17:25 UTC 版)
「ジョゼフ・J・クラーク」の記事における「初代「ヨークタウン」」の解説
1941年5月、クラークは空母「ヨークタウン」 (USS Yorktown, CV-5) に副長に就任し、このポジションで真珠湾攻撃を迎える。「ヨークタウン」副長として1942年2月のマーシャル・ギルバート諸島機動空襲、3月10日のラエ・サラモアへの空襲、5月8日の珊瑚海海戦を戦ったクラークは、6月5日のミッドウェー海戦を迎える。海戦では、真珠湾以来無敵を誇っていた南雲忠一中将率いる第一航空艦隊の空母4隻を撃沈して戦局のターニング・ポイントとなったが、クラークが乗る「ヨークタウン」は南雲艦隊の「飛龍」から飛来した友永丈市大尉の攻撃隊によって航行不能に陥り、やがて伊号第一六八潜水艦(伊168)からの雷撃によってついに沈没した。 「ヨークタウン」の艦長はエリオット・バックマスター大佐(アナポリス1908年組)であり、第17任務部隊司令官フランク・J・フレッチャー少将(アナポリス1906年組)の旗艦でもあった。しかし、艦長のバックマスターと副長のクラークとの間は嫌悪しかなかった。1937年以降航空と関わり始めたバックマスターに対し、上述のようにクラークは早い段階からのパイロットであった。「ヨークタウン」の所属パイロットは、バックマスターの意見を無視してクラークの意見を重んじた。このような傾向は「ヨークタウン」に限らず、パイロットやパイロットあがりの士官はペンサコーラの飛行学校で航空を少々かじった程度の士官を「キーウィ」などと呼んで見下す傾向があった。航空出身者は、ジョン・ヘンリー・タワーズ(アナポリス1906年組)のような生粋のパイロットの純血種こそが、航空に関わる全ての事案を指揮すべきだとも考えていた。クラークはまた、フレッチャーともそりがあわなかった。フレッチャーは空襲計画をバックマスターに示してからクラークにまわしていたのだが、これもクラークにとっては気に入らなかった。クラークはとどめとしてフレッチャーとバックマスターを「消極的」として批判キャンペーンを繰り広げ、ついにはマスコミや海軍作戦部長兼合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング大将(アナポリス1901年組)の前でも同じことをやった。バックマスターはその後表舞台に立つことはなく、フレッチャーも第二次ソロモン海戦を経て大戦後半からはアリューシャンで過ごさざるを得なかった。
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