内陸部での塹壕戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 10:32 UTC 版)
沿岸部を征服して残る内陸部フェザーンに迫るイタリア陸軍に対し、オスマン軍は強固な防衛線と遅延戦術によって戦局を膠着化させようとした。この戦いでは後のトルコ革命の英雄となるムスタファ・ケマルが途中で参加しており、総司令官エンヴェルと対立しながらも、1911年にトブルクでの破壊工作を指揮して功績を挙げている。 既にオスマン軍が2万8000名にまで膨れ上がっていた事もあり、膠着を嫌ったイタリアは第二次遠征軍を派遣して兵員を一挙に10万名へ拡大した。しかし遅延戦術を根本的に打開する手段にはならず、両軍の戦いは砂漠地帯での塹壕戦に移行していった。トリポリタニア現地の都市らはインフラが不備で小さすぎるため、イタリア遠征軍の全体をまともに収容することさえできなかった。しかも西欧式に武装・訓練されたイタリア兵士が砂漠のゲリラに慣れていない難点もあった。この点を意識したイタリア軍の指揮部は沿岸部を要塞化し、持続的な普及と整備をもとに持久戦に臨む方針を立てた。 1912年3月3日、停滞した塹壕戦でエンヴェル将軍は主用拠点の一つデルナに対して1500名の兵士を派遣したが、より少ないイタリア陸軍の守備隊に撃退された。オスマン軍は砲兵部隊を投入させて再度攻勢を試みたが、後方から増援を得たイタリア側の塹壕を破ることはできなかった。9月14日、今度はイタリア陸軍による攻勢が開始され、3個連隊による猛攻でオスマン側の拠点が制圧された。9月17日、補給線を断たれた状態に陥ったエンヴェルは総反撃を命令したが、むしろオスマン軍の損害が増すばかりで、そればかりかエンヴェル自身もイタリア陸軍のアルピーニ兵による銃火で負傷する有様だった。 これに先立ち1911年11月5日、イタリア政府はトリポリタニア・キレナイカの併合を宣言した。予想が外れた戦争の長期化にもかかわらず、イタリアが急いで両地域の併合を宣言した背景には決定的な勝利を収めることができない状態で、列強が仲裁を口実にオスマン帝国に有利になるように調整することを防ぐという考慮が作用した。
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