共産主義体制の終焉
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「ブルガリア人民共和国」の記事における「共産主義体制の終焉」の解説
ジフコフはスターリン主義的な「暴君」ではなかったものの、70歳を迎えた1981年頃から、自由化は終焉を迎え、腐敗や専横、乱れが大きくなっていった。娘のリュドミーラ・ジフコヴァ(英語版、ブルガリア語版)(Людмила Живкова / Lyudmila Zhivkova)が死去したのも同じ頃である。このことは、ブルガリア国内で人口のおよそ10%を占めるトルコ系住民に対する同化政策に特に見て取ることが出来る。トルコ系住民はトルコ語を話すことを禁じられ、ブルガリア風の姓名への改名を強制された。多くのトルコ系住民がトルコへ脱出し、ブルガリアと西側諸国との経済関係は冷却化した。 そのような中、1980年代後半には、ソビエト連邦で始まったミハイル・ゴルバチョフによる改革計画(ペレストロイカ)やポーランドやハンガリーで始まった東欧革命がブルガリアへも影響を与え始めていた。改革要求に対してブルガリア共産党も指導者ジフコフも抗しきることができなくなっていた。1989年11月、環境問題に関するデモ行動がソフィアで発生し、やがてデモはブルガリアの政治改革全般への要求へと拡大していった。ブルガリア共産党の指導部の一部は、切迫した変革の必要性を認識し、これに迅速に反応した。 1989年11月10日、老いたジフコフは職を追われ、代わって外相のペトゥル・ムラデノフが国家元首となった。この応急的な対処によって、共産党政権はわずかの延命と革命阻止に成功した。1990年2月、共産党は自発的に一党独裁体制を放棄し、党名を「ブルガリア社会党」と改めた。同年6月には1931年以降初となる自由選挙が行われ、ブルガリアは複数政党制への移行を果たした。同年11月、国名は「ブルガリア共和国」と改められた。
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共産主義体制の終焉
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「ハンガリー民主化運動」の記事における「共産主義体制の終焉」の解説
社会主義労働者党の急進改革派はさらなる改革を推し進め、1989年6月23日、24日に開催された党の中央委員会では、政治局を廃止して21人からなる政治執行委員会と、ニエルシュ、ポジュガイ、ネーメト、グロースから成る幹部会を設け、党首(党議長)にはニエルシュが就任した。グロースは書記長のポストにとどまったが、幹部会は4人のうち3人が急進改革派であり、また党の最高指導者から外され、失脚した形になった。こうして急進改革派が党の主導権を握った。 6月25日、ニエルシュは「スターリン主義とプロレタリア独裁から決別する」と表明し、複数政党制の導入を決定して一党独裁を放棄した。 10月の党大会において「党の国家政党としての歴史は終わった」と宣言して社会主義労働者党は民主社会主義を志向する「ハンガリー社会党」へ改名がおこなれた。 10月18日、国会で市場経済・複数政党制による民主政などを定めた憲法の改正案が採択されて、国名も「ハンガリー共和国」に改称された。 1989年10月23日、暫定国家元首となったスールシュ・マーチャーシュ(ハンガリー語版)国会議長が国会前の広場で共和国宣言を読み上げ、ここにハンガリー人民共和国は完全に終焉した(第一次大戦末期の第一共和国(ハンガリー民主共和国)、第二次大戦直後の第二共和国に次ぐ共和政体として「第三共和国」と呼ばれる)。 ハンガリーでは既に民主化勢力である「民主フォーラム」が活発な政治活動をはじめていた。ピクニック事件はその活動の一端であるが、その結果引き起こされたベルリンの壁崩壊は彼らが望んでいた通りの出来事であり、民主フォーラムの気勢は高まった。 こうして行われた1990年の自由選挙では民主フォーラムが勝利し、社会党から民主フォーラムへの政権の委譲が行われた。しかし改革派であったハンガリー社会党は、他の東欧諸国の旧共産党とは違い、ハンガリー国民の支持を失わず、1994年に政権に返り咲き、その後も2002年に再び政権に復帰するなど、フィデス=ハンガリー市民同盟などと並ぶハンガリーの有力政党となっている。
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