全国大会へ
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加茂下 福 重 清 水 香 川 田 部 塚 部 深 山 伴 前 大 石 米 田 1924年第1回明治神宮大会決勝メンバー。ピラミッドシステム。 1924年、第1回神宮蹴球競技中国予選(兼第4回大会予選)では「広島一中R団」として優勝。第1回戦1-0対広島高師、第2回戦1-0対松山高校、優勝戦2-0対山口高校と強豪を勝ち抜き、全国規模の大会に初出場することになった。神宮蹴球競技本大会では「鯉城倶楽部」の名前で出場し決勝に進み、対戦相手はライバル御影師範(全御影師範クラブ)となった。この試合前半から鯉城が優勢で福重の先制点・清水直右衛門の追加点で2-0で折り返し、後半は秩父宮雍仁親王と賀陽宮恒憲王の観覧の下、清水・香川幸が追加点、終了間際に1点返されトータル4-1で勝利し、初優勝する。 1925年(大正14年)第2回神宮蹴球競技(第5回大会)では鯉城倶楽部の名で出場。同年10月30日、御影蹴球団との準決勝は、両チーム譲らず1-1の引き分け。その日は日没となったので延長戦は翌10月31日に行なわれ、御影蹴球団が1点を奪取して2日がかりの試合に決着をつけたと思われたが、鯉城から抗議が起こった。御影は前日負傷した選手に代わって、登録外の選手を出場させた、というアピールだった。延々6時間、話し合いは難航に難航を重ねた。結局、鯉城の抗議が認められ再試合になったものの、これも引き分けとなり日没になった。11月1日朝8時から延長戦だけを行い、ようやく鯉城の清水が決勝ゴールを挙げ3-2となり、3日がかり4試合のケリをつけた。選手全員はクタクタに疲れ切っていたが、翌11月2日の決勝戦東京大学戦は3-1で勝利し二連覇を果たした。 1926年(昭和元年)、大正天皇の崩御に伴い明治神宮大会は中止となっている。 1927年(昭和2年)、第4回神宮蹴球競技(第7回大会)に「鯉城蹴球団」の名前で事実上の三連覇を目指し、三大会連続で決勝に進出したが神戸一中クラブに0-2で敗れた。当時の決勝記録から、初優勝した時の決勝メンバーから塚部(この試合ではCH)以外は全員入れ替わっていることがわかる。
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全国大会へ(第9回〜)
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「全国高等学校サッカー選手権大会」の記事における「全国大会へ(第9回〜)」の解説
1925年度の第9回大会から、全国をいくつかのブロックに分け、その予選優勝校で"本当の全国大会"に飛躍させようとの気運が高まり、全国での地区予選制となって、名称も「全國中等學校蹴球選手權大會」と改められ、ラグビー大会と分割、関西の学校以外の学校も参加する全国規模の大会に成長することになった。前述のように第8回大会までは大日本蹴球協会は運営にタッチできなかったようであるが、この第9回大会からの全国大会移行にあたっては、毎日新聞からの要請で田辺五兵衛や野津謙、鈴木重義ら、大日本蹴球協会の関係者が運営に関与した。ここで年齢制限の問題が出て、それまで年齢では2歳上となる師範学校が中学校と同じ大会で争っているという問題点について、別々に分けるという案も出されたが、この第9回大会から参加を予定していた朝鮮地区の選手が、戸籍を持たず、年齢確認が困難ということが分かったこともあり、引き続き一緒にやることになった。この後、1929年(第11回大会)、1935年(第17回大会)の二度に渡り、年齢制限が加えられたため、師範学校チームは弱体化したという。なお、毎日新聞が中等野球の全国大会を持とうと考えたのは、このサッカー大会がマイナーなまま、朝日新聞主催の夏の全国中等野球大会に対抗できなかったからという見方がある。
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