党略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:37 UTC 版)
Harper's Weeklyとナストは1864年のリンカーン、1868年、1872年のグラントの選挙で大きな役割を果たした。1864年9月、自身を「平和な候補者」と称する対立候補民主党候補ジョージ・マクレランがいる中で再選への運動をしているとき、Harper's Weeklyはナストの漫画『南部との妥協 - シカゴの大会に捧ぐ』("Compromise with the South - Dedicated to the Chicago Convention")を発表し、マクレランの南部びいきの平和政綱を批判した。これは何百万部が作られ全国に配布され、ナストは後に、リンカーンの運動が厳しい時に援助をすると信じられるようになった。1868年の大統領選挙で重要な役割を果たし、ユリシーズ・グラントはこの勝利を「シェリダンの剣とトーマス・ナストの鉛筆」によるものとした。1872年の大統領選挙では、候補者ホレス・グレーリーに対するナストのあざけりは特に無慈悲であった。1872年にグラントが勝った後、マーク・トウェインはナストに次のように書いた手紙を送っている。「ナスト、あなたはグラント、むしろ文明や進歩に、驚くべき勝利をもたらした人のだれよりも優れている」ナストはグラント大統領と近しい友人になり、2人の家族はグラントが亡くなる1885年まで定期的に食事会を行っていた。 ナストと妻は1872年にニュージャージー州モリスタウンに移住し、そこで最終的には5人になる家族を育てた。1873年には講師や写生画家としてアメリカを周った。講演で周ったことにより裕福になった。何年もの間しっかりした共和党員であった。有名なrag-babyの漫画で通貨のインフレに反対し、1876年のラザフォード・ヘイズの大統領選挙を保証する上で重要な役割を果たした。ヘイズは後に「ナストは『自身が持っていた最も強力な唯一の援助』」と述べたが、ナストが反対していた南部和解の政策を支持したため、ナストはすぐに幻滅した。 1877年にWeekly'sの発行者フレッチャー・ハーパーが死去すると、ナストの編集者のジョージ・ウィリアム・カーチスとの関係が変化した。ナストの漫画の出る頻度が減り、ヘイズや彼の政策を批判する自由を与えられなかった。1860年代後半のはじめ、ナストとカーチスは政治問題、特に政治論における漫画の役割について頻繁に意見を異とした。カーチスは風刺画の強力な武器は野党の「クー・クルックス・デモクラシー」のために確保すべきであると信じ、グラント政権の政策に反対するカール・シュルツやチャールズ・サムナーなどの共和党員を攻撃するナストの漫画を承認しなかった。ナストはカーチスにこう言っている「人がペンで人を攻撃するとき、まるでその行為を謝罪しているように見える。私は目の間の敵を撃ち、ノックダウンしようとします」。フレッチャー・ハーパーはカーチスとの論争において一貫してナストを支持した。フレッチャーの死後、甥のジョセフ・W・ハーパー・ジュニアとジョン・ヘンリー・ハーパーが雑誌の管理を引き継いだが、彼らはカーティスの編集の立場に反する漫画を拒否するという主張に対しより同情的であった。 1877年から1884年の間でHarper'sにナストの作品は単発的にしか登場せず、Harper'sはウィリアム・アレン・ロジャースの比較的穏やかな政治漫画を出版し始めた。ナストの影響力の範囲は縮小していたが、この時から彼の親中国系移民の絵は数十にのぼり、その多くでアイルランド人を煽動者としていた。中国人排斥法を支持した上院議員のジェームス・G・ブレインを非難し、ツイードに対したのと同じ熱量でブレインを描いた。アメリカにおける中国人の運動を取り上げた少ない新聞画家の1人であった。 1880年の大統領選挙では、ガーフィールドがCrédit Mobilierのスキャンダルに関わっていたため、共和党候補の彼を支持することができないと感じたが、民主党候補のウィンフィールド・スコット・ハンコックとは個人的な友人であり、連合軍の誠実さは尊敬されるものだったので攻撃することを望まなかった。結果的にHalloranによると「ナストの1880年の選挙活動での論評は熱意を欠いている」とした。1883年3月末から1884年3月1日まで、病気であったのもありHarper'sに漫画を提出しなかった。 1884年、カーチスとナストは、各々が腐敗していると知覚していたスポイルズ・システムや高い関税を支持者である共和党候補のジェイムズ・G・ブレインを応援しないことで同意した。代わりに、政府官庁の改革の政綱を持つ民主党候補のグロバー・クリーブランドを支持しマグワンプとなった。ナストの漫画はクリーブランドが1856年以来の民主党の大統領になる助けとなった。ナストの孫、トーマス・ナスト・セント・ヒルが語るところによると、「ナストの支持が少しばかりクリーブランドが選出されるのに貢献したと一般的に認められているが、これが実際にはナストが『大統領を作った』最後の国家政治での運動である」 Harper's Weeklyの在任は1886年12月のクリスマスのイラストで終了した。ジャーナリストのヘンリー・ウォターソンによると、「Harper's Weeklyを辞めるにあたり、フォーラムを失った。Harper's Weeklyは彼を失うことで政治的な重要性を失った」。Fiona Deans Halloranは「前者はある程度真実であるが後者はおそらく違う」と言っている。 詐欺師フェルディナンド・ワードが経営していた銀行及び証券会社に投資をし、1884年に財産の大部分を失った。収入が必要になったため、1884年と1887年に再び講義で全国を周った。これらは成功に終わったが、1873年に行ったときよりは報酬は少なくなっていた。
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