兗州を守る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 04:16 UTC 版)
曹操が徐州に遠征するとき、荀彧・程立に鄄城を任せ、夏侯惇・張邈・陳宮らと共に留守を任せた。張邈と陳宮が呂布を引き込んで反乱を起こすと、兗州のほとんどが呂布に呼応したが、鄄城・東阿・范の三城だけは動揺しなかった。陳宮が東阿を、汎嶷が范を攻撃する動きを見せていたため、荀彧は程立に東阿と范の安定を任せた。范の令である靳允は呂布に妻子一族を人質にとられていたが、程立は靳允を説得し味方に引き留め、靳允の手で汎嶷を殺害させることに成功した。東阿の防衛には騎兵隊を派遣し、倉亭津を絶ち切って陳宮の侵攻を阻止した。東阿県令の棗祗は元々曹操に味方する意向だったため、程立は任務を果たすことができた。兗州従事の薛悌の協力も得て、程立達は曹操の帰還まで三城を堅守した。これ以前、程立は荀彧に、若い頃に見た夢について相談していたが、荀彧が帰還した曹操にこの夢の話をしたところ、曹操は程立が自身の腹心となる人物であると確信し、名を昱と改めるよう命令したという(『魏書』)。 その後、濮陽で呂布に撃退された曹操が弱気になり、袁紹の言われるままに家族を人質に差し出そうとした時は、それを押し留めた。 献帝が長安から洛陽に逃亡して来ると、程昱は荀彧と共に曹操に献帝を迎え入れるよう進言した(「武帝紀」)。献帝が許昌に都を定めると、程昱は尚書に任命された。兗州の安定のため、東中郎将として済陰太守を兼ね、都督兗州諸軍事となった。 劉備が曹操の下に身を寄せていた時は、劉備を殺すように進言したが、曹操は聞き入れなかった。その後、袁術を防ぐため曹操が劉備を徐州に赴かせたことを聞き、程昱は郭嘉とともに再び曹操に諫言した。曹操は後悔したが間に合わず、はたして程昱が予期したとおり劉備は車冑を殺害し、曹操に反旗を翻した。 程昱は振威将軍に昇進した。袁紹はかねてより、黎陽より南下の機会を伺っていたが、あるとき程昱が兵700で鄄城を守っていたところに、袁紹の大軍が近づいてきたという知らせが入った。これを知った曹操が兵2000を増援しようとしたが、程昱はこれを断った。兵が少なければ、相手は見くびって見逃すであろうが、増援されれば黙って通過しないだろうというのがその理由だった。果たして程昱の読みどおり、袁紹は攻撃してこなかった。曹操は感嘆して「程昱の度胸は、孟賁・夏育(戦国時代の秦の武王に仕えた勇士)を凌ぐものがある」と言った。 袁譚・袁尚との戦いでは、程昱は李典とともに兵糧を輸送し、それを妨害する袁尚の魏郡太守高蕃を撃破した(「李典伝」)。その後程昱は、山や沼沢に隠れていた人々を掻き集めて、精兵数千人に編成し曹操と黎陽で合流し、袁譚・袁尚を打ち破った。奮武将軍に昇進し、安国亭侯となった。
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