保守党党首
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「デーヴィッド・キャメロン」の記事における「保守党党首」の解説
庶民院議員再選後は影の内閣の教育・技能相を務めていたが、2005年12月の保守党党首選挙に「若手による改革」を唱えて出馬する。当初、キャメロンの当選は有力視されていなかったが、人気歌手だったニール・セダカを彷彿とさせる39歳の若さや爽やかな弁舌が支持を集め、党内の実力者で影の内務大臣だったデイヴィッド・デイヴィスらを破り、第26代保守党党首に選出される。ウィリアム・ピット(小ピット)以来の最も議員経験の少ない党首であった。就任後は右寄りに傾きつつあった保守党を中道寄りに修正し、長期政権への倦怠感から不人気に陥ったブラウン労働党政権を上回る支持率を獲得。補欠選挙や地方選挙で快進撃を続け、保守党の党勢回復に成功する。2010年5月の庶民院議員総選挙では、労働党を上回る議席を獲得し、第一党の座を奪還するも過半数は獲得できなかったため、第3党の自由民主党に対し、連立政権の樹立を呼びかける。5月11日、ゴードン・ブラウン首相の退陣を受け、保守・自由民主両党による連立政権の樹立に合意した上で、首相に任命された。首相就任時の年齢は43歳7ヶ月であり、1812年の第2代リヴァプール伯爵ロバート・バンクス・ジェンキンソン以来最も若い首相である。就任後、連立政権のパートナーである自由民主党のニック・クレッグを副首相及び枢密院議長に起用し、5月12日に戦後初の連立内閣 である第1次キャメロン内閣を発足させた。
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保守党党首
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「マーガレット・サッチャー」の記事における「保守党党首」の解説
「en:Shadow Cabinet of Margaret Thatcher」も参照 1974年2月の総選挙で保守党は敗北を喫し、1975年2月に保守党党首選挙が実施される。当初サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念した。その為右派からはサッチャーが出馬する。 教育科学相の経験しか無いサッチャーの党首選挙への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破って保守党党首に就任する。同年にイギリスを含む全35か国で調印・採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。 ソビエト連邦の国防省機関紙の「クラスナヤ・ズヴェズダ」は、頑固なサッチャーを「鉄の女」と呼んで非難した。この「鉄の女」の呼び名はサッチャーの強硬な反共主義を揶揄するためのものだったが、サッチャー自身も気に入り、その後あらゆるメディアで取り上げられた為にサッチャーの代名詞(愛称)として定着した。
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