佐田浜の埋立と開発(1960-1985)
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「佐田浜」の記事における「佐田浜の埋立と開発(1960-1985)」の解説
高度経済成長期になると国道167号(現・国道42号・167号の重複区間)の拡幅が検討され、山側を通す2案と海側を通す1案が提出された。ちょうど観光シーズンの自動車渋滞と岩崎桟橋の船舶の混雑の解決が求められていたこともあり、佐田浜海岸を埋め立てて新港を建設し、新国道を海岸沿いに建設することを決定した。佐田浜開発は、初代市長・中村幸吉が構想した大規模開発事業の1つであり、2代目市長の谷本荘司も事業を引き継いだ。一般市民が計画を知ったのは1961年(昭和36年)のことで、市内14団体が連合して鳥羽湾埋立反対同盟を結成し、反対運動を起こすに至ったが、1966年(昭和41年)6月2日に鳥羽市役所で起工式が挙行された。埋立面積は約6.8 haに及び、埋め立て用の土砂は堅神団地(現・池上町)東部の切り崩しで発生したものを利用した。1967年(昭和42年)には新国道の建設も着工、1968年(昭和43年)5月20日に近鉄鳥羽線の建設と近鉄志摩線の改良工事が始まった。 1969年(昭和44年)5月、志摩勝浦観光汽船(現・志摩マリンレジャー)の鳥羽湾めぐり遊覧船と鳥羽市営定期船の乗り場が相次いで岩崎桟橋から新港へ移転した。翌1970年(昭和45年)3月1日には近鉄鳥羽線が開通、埋立地に建設された近鉄鳥羽駅が営業を開始し、7月21日に鳥羽港湾センター・鳥羽パールビルの開館式を挙行、12月1日に佐田浜市営駐車場(現・佐田浜第一駐車場)が開かれ、新港はほぼ完成した。この間、1970年(昭和45年)5月1日に公募していた新港の名称が決定し、「佐田浜」と発表された。この頃はまだ、佐田浜は駅裏と認識されていた。 その後も埋め立てと開発は続き、1971年(昭和46年)3月18日に三重交通の鳥羽バスターミナルが完成し、1972年(昭和47年)に埋め立てを終了した。荷揚場や防波堤も建設され、名古屋や蒲郡とを結ぶ水中翼船の発着場も佐田浜に設けられた。この時、縁期松のある小島が陸続きとなり、佐田浜西公園となった。佐田浜埋立の契機となった新しい国道167号は4車線で1973年(昭和43年)3月18日に開通し、幹線道路が山側の市街地から海辺の埋立地に移動した。佐田浜の埋め立ての完了後、鳥羽港中部の中之郷でも埋立工事が始まり、佐田浜を観光港、中之郷を産業港として機能分担させた。1977年(昭和52年)3月18日には、廃業したボウリング場を大幅に改造して鳥羽一番街が誕生した。
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