今川家の人質として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:46 UTC 版)
天文14年(1545年)、第3代当主・北条氏康の四男として生まれる。 この当時、北条家の早川殿と今川家の今川氏真の縁談の約束があったが早川殿が未だ幼少であるため、今川家に輿入れすることができなかった。このため、氏規が代わりに人質として送られた、とされている。ただし、今川家の精神的支柱であった寿桂尼(今川氏親未亡人)の実の孫であったことから、彼女が預かって養育する形が取られた。天文23年(1553年)、氏真と早川殿の婚姻が行われるが、氏規はその後も駿府に滞在した。これも早川殿が未だ出産できる年齢ではなかったためとされている。弘治2年頃に氏照が大石家を継承することになると、氏規は氏政に継ぐ地位、後継者の控えの地位につくことになった。 元服の時期は明確ではないが、小田原の実家ではなく駿府の今川義元の下で行われた。浅倉直美は元服を永禄元年(1558年)のこととし、氏規の「規」は今川氏の通字である「範」に通じることから採用されたとみている。永禄3年(1560年)に義元に元服後の助五郎で呼ばれている書状がある。氏真には兄弟はなく、有力な近親者は同世代の瀬名氏詮(後の信輝)くらいしか見当たらない状況にあり、氏規が駿府に滞在し続けたのは北条御一家衆としてよりも今川御一家衆としての立場が優先されたためと見られている。また、義元は重臣の朝比奈泰知(泰能の甥)の子とされる朝比奈泰寄と、同族の泰栄を氏規に付け、後に両名はそのまま氏規の家臣になったとされている。またこの頃、同じく今川家で人質として養育されていた松平竹千代、のちの徳川家康と知り合う。
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