岩崎弥太郎
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岩崎 弥太郎[注釈 1](いわさき やたろう、旧字体:岩崎 彌太郞、天保5年12月11日〈1835年1月9日〉- 明治18年〈1885年〉2月7日[1])は、日本の実業家。土佐藩(現在の高知県)出身で、34歳の時、大阪で現在の三菱財閥(現:三菱グループ)の源流企業である日本郵船を創設した[2]。弟の岩崎弥之助とともに岩崎家の中心的人物である。50歳で病死。
注釈
出典
- ^ Iwasaki Yatarō Japanese industrialist Encyclopædia Britannica
- ^ 朝日日本歴史人物事典「岩崎弥太郎」
- ^ a b c d 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.1,三菱人物伝.「マンスリーみつびし」2002年5月号.
- ^ a b c 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.2,三菱人物伝.「マンスリーみつびし」2002年6月号.
- ^ a b 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.4,三菱人物伝.「マンスリーみつびし」2002年8月号.
- ^ a b c d e 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.5,三菱人物伝.
- ^ a b c 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.6,三菱人物伝.
- ^ 『長崎奉行所記録』及び『土佐群書集成第19巻』(高知市民図書館発行)
- ^ 『岩崎弥太郎不屈の生き方』武田鏡村、PHP研究所, Nov 16, 2012
- ^ 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.7,三菱人物伝.
- ^ 鍋島高明、高知新聞社、高知経済人列伝、P42
- ^ a b c d 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.8,三菱人物伝.
- ^ a b c d 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.10,三菱人物伝.
- ^ 佐々木誠治「近代海運業の発展と財閥」神戸大学経済経営研究32号1、1982,p3-6
- ^ vol.11 三菱マークの起源 三菱グループ
- ^ a b c d e 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.18,19,20,三菱人物伝.
- ^ a b c 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.12,三菱人物伝.
- ^ 三菱財閥 - コトバンク
- ^ a b c d e 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.13,14,三菱人物伝.
- ^ 『江戸商家の家訓に学ぶ商いの原点』荒田弘司、すばる舎, 2006 「第6章 事業の行き先に国家を見よ 三菱岩崎家の訓え」
- ^ a b c d e 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.15,16,17,三菱人物伝.
- ^ 赤塚不二夫は、ビル・ゲイツは、足利尊氏は...。成功者たちの「フシギな習慣」12選 ライフハッカー 2013年9月09日
- ^ a b c d e f g h i j 佐藤朝泰 『門閥 旧華族階層の復権』 立風書房、1987年4月10日第1刷発行、ISBN 4-651-70032-2、262-263頁。
- ^ 佐藤 『門閥』 264-265頁。
- ^ 岩崎家傳記刊行会 編纂 『岩崎久彌傳』 東京大学出版会、1961年12月2日発行、152頁。
- ^ 黒岩比佐子『『食道楽』の人 村井弦斎』岩波書店、2004年6月25日、188頁。
- ^ a b c 『財界家系譜大観 第3版』 現代名士家系譜刊行会、1977年12月1日発行、511頁。
- ^ a b c 『財界家系譜大観 第4版』 現代名士家系譜刊行会、1980年8月1日発行、416頁。
- ^ a b c 『財界家系譜大観 第5版』 現代名士家系譜刊行会、1982年8月1日発行、450頁。
- ^ 『官報』第479号「賞勲叙任」1885年2月7日。
- 1 岩崎弥太郎とは
- 2 岩崎弥太郎の概要
- 3 家訓
- 4 脚注
九十九商会
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明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、明治2年(1869年)10月、土佐藩首脳林有造は海運業私商社として土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を立ち上げた。代表は海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之助、弥太郎は事業監督を担当した。明治3年(1870年)には土佐藩の少参事に昇格し、大阪藩邸の責任者となり、英語習得を奨励した。私腹を肥やしていると疑われ派遣された内偵の石川七財を勧誘し、商会に入れた。明治4年(1871年)の廃藩置県で彌太郎は土佐藩官職位を失ったため、九十九商会の経営者となった。九十九商会は、藩船3隻払下げを受け貨客運航、鴻池家や銭屋に抵当として抑えられていた藩屋敷(現在の大阪市西区堀江の土佐稲荷神社付近)を買い戻した。岩崎弥太郎は当地に本邸を構え事業を営み、三菱の発祥の地となる。邸宅跡は現在石碑が建てられている。明治期当時、外国船は日本の国内航路にまで進出しており、明治政府は「廻漕会社」を設立し幕府所有の蒸気船を与えたが太刀打ち出来ず、また三井、鴻池、小野組などに設立させた日本国郵便蒸汽船会社に、諸藩から取り上げた蒸気船を与え、運航助成金も支給したがはかばかしくなかったのに対して、九十九商会は高知—神戸航路、東京—大阪間の輸送で上潮だった。
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