三菱商会
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明治8年(1875年)2月に三菱商会に入社。東京本店勤務を命ぜられた三菱での荘田の最初の仕事は「三菱汽船会社規則」の策定だった。明治8年5月に発表された。さらに2年後に経理規程ともいうべき「郵便汽船三菱会社簿記法」を纏(まと)めた。これにより三菱は、大福帳経営を脱し、日本で初めて複式簿記を採用し、徐々に近代的な経営組織を確立する。 初期三菱の経営戦略を担った荘田は、東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)、明治生命(現在の明治安田生命)保険会社の設立に関わり、第百十九国立銀行を傘下に入れ、東京倉庫会社を設立するなど、さまざまな分野への進出を図った。明治18年の日本郵船設立に際しては三菱側代表として創立委員になり理事に就任した。明治19年(1886年)に三菱が海運以外の事業を目的として「三菱社」の名で再発足するときに本社支配人として復帰、のち管事となり新生三菱を指揮した。1888(明治21)年に発売となったキリンビールの「麒麟」の名付け親でもある。当時輸入されていた西洋ビールに狼や猫等の動物が用いられていた為、東洋らしさを出す為空想上の動物「麒麟」を商標にしようと荘田が提案したのである。 明治22年(1889年)、荘田は英国の造船業界などの実情視察のために外遊した際に、ロンドンのホテルの部屋で開いた新聞のコラムに「日本政府、陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内の練兵場を売りに出すも買い手つかず」とあるのを発見した時に「日本にもロンドンのようなオフィス街を建設すべきだ。皇居の目の前の丸の内こそその場所だ。」と感じ、岩崎弥之助に「丸の内、買い取らるべし」と打電。岩崎弥之助が松方正義蔵相と合意した買取額は128万円。当時の東京市の年度予算の3倍。荘田は丸の内の産みの親である。 また、荘田は長崎造船所の大改革も行なった。長崎造船所は明治20年(1887年)に国から払い下げられた。明治28年(1895年)に日本郵船が欧州航路の開設を決定したが、社外取締役の荘田の主張で新造船6隻のうち1隻は長崎造船所に発注された。常陸丸(ひたちまる)6172トン。それまでの最大建造実績は須磨丸の1592トンだから技術的にも大変な飛躍である。明治30年(1897年)に造船奨励法が公布され、修繕船から脱皮し新造船を事業の中核にするのだという明確な意識を持った岩崎久弥は、本社の管事として全事業を指揮する立場にあった荘田をあえて長崎造船所長に任命した。荘田は勇躍長崎に赴き、積極的な設備拡充を図り、貨客船や軍艦などその後の日本の大型船建造の道を開拓した。 荘田の近代化はハード面だけではなかった。「傭使人扶助法(ようしにんふじょほう)」「職工救護法」など労務管理制度を確立、所内には工業予備校を設立し自前で職工の養成を図るようにした。また、造船における厳しい原価計算の概念を導入した。今では当たり前のことだが、当時の日本企業には製造原価など工業簿記の概念はなかった。 荘田は明治39年(1906年)まで長崎造船所の所長を務め、また永らく管事として弥太郎、弥之助、久弥の三代を支え、明治43年(1910年)に引退し。豪傑肌の人物が多い明治の三菱の経営者たちの中にあって、唯一の英国風のジェントルマンであり、生涯を通して「組織の三菱」といわれるような近代的な組織づくりに貢献した。 その後、荘田は明治生命保険会社の取締役会長になった時期もあったが、晩年は受刑者の社会復帰事業に協力したり聖書の勉強をしたり、後進の指導と共に静かな余生を送る。
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三菱商会
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明治5年、九十九商会は三川(みつかわ)商会となったが、代表は川田小一郎、石川七財、中川亀之助で弥太郎の権限は曖昧不分明である。 明治6年(1873年)、三菱商会へ社名変更し、明治7年本店を東京日本橋の南茅場町に移し、三菱蒸汽船会社へ社名変更した。この時、土佐藩主山内家の三つ柏紋を元にして(後に岩崎家の三階菱紋の家紋の意味合いを持たせる)現在、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。 土佐山内家が用いていた「土佐柏」 岩崎家が用いていた「重ね三階菱」 また岡山県の吉岡銅山を入手した(現在の三菱マテリアル)。 弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。
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三菱商会
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1874年、三菱商会は本社を大阪から東京に移し、郵便汽船三菱会社と改名を重ねる。同年に勃発した台湾出兵では派遣船の運行会社として指名されたことで政府からの信頼を得た。主力事業である海運業においては外国勢力や中小の船会社を徹底的に駆逐して独占的な地位を得た。しかし三菱の独占と専横を快く思わない渋沢栄一や井上馨や品川弥二郎らが三菱に対抗できる海運会社の設立を画策、政府の出資も得、三井などの反三菱勢力も結集して1882年7月に共同運輸会社が設立、翌1883年営業を開始した。三菱はいつも通りの値下げ攻勢で共同運輸も潰そうとしたが、政府の後援のある共同運輸は更なる値下げで対抗。続く2年間はダンピング競争で海上運賃は大幅に安くなったが両社は完全に消耗し、守勢に回った三菱は路線や人員の削減で倒産寸前となった。さすがに過当競争を見かねた政府が間に入り、1885年に共同運輸との対等合併で日本郵船会社が設立された。三菱は中心事業である海運業を一時的に失ったが数年後には人的にも経営の実権を握ることとなった。 1885年の弥太郎死去後、その弟・弥之助が後を継いだ。岩崎弥之助は三菱社と改名し1881年に買収した高島炭鉱と1884年に借り受けた官営長崎造船所(後の三菱重工業)を中核として、事業の再興を図った。 炭鉱、鉱山事業の拡充、1887年の長崎造船所の払い下げとその後の積極的な造船業の拡充、1885年に第百十九国立銀行の買収による銀行業務への本格展開をし、1887年に東京倉庫(後の三菱倉庫)を設立した。 1893年に商法が施行され、三菱社は三菱合資会社へと改組。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資の三代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒の設立など、事業がいっそう拡大された。 1916年(大正5年)に弥之助の長男・小弥太が四代目社長に就任。部長制を廃止し分野別に担当事務理事を置いた。 1917年に三菱造船、三菱製紙、1918年に三菱商事、三菱鉱業、1919年に三菱銀行、1920年に三菱内燃機製造、1921年に三菱電機と次々に分割化していった。そして、満州事変から第二次世界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に三菱の事業は飛躍的に拡大した。 スリーダイヤマークの「三菱」の呼び名だが、これは土佐藩主山内家の家紋の「三つ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わせたものであった。戦前の8大財閥(三菱財閥、三井財閥、住友財閥、安田財閥、浅野財閥、大倉財閥、古河財閥、川崎財閥)の中では唯一創業者の姓を冠さないものとなったが、これは新政権の明治政府に奉公するという岩崎の気持ちを表したものだったといわれる。
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三菱商会
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岩崎弥太郎(いわさき やたろう) 演:中村芝翫 三菱商会会頭。 台湾出兵や西南戦争の際、政府軍の軍事輸送を請け負い、莫大な利益を得ると同時に政府との結びつきを強化。大隈重信の優遇を受け、日本の海運業を独占する。 栄一が東京商法会議所を設立すると、運輸業の筆頭として名を挙げられる。会合への参加には乗り気でなかったものの、周囲が高く評価する栄一に興味を持ち、彼を宴席に誘う。栄一とは、若き日に武士の世の理不尽に怒りを覚え故郷を後にしたという共通点や、商業の力で日本を一等国にするという理想を同じくすることから意気投合。しかし栄一が唱える合本主義には懐疑的であり、「経済には勝つ者と負ける者がいる」「事業は一人の経済の才覚ある人物が己の力だけで動かしていくのが最善」と語り、自身と手を組むことを提案するが、栄一からは根本的に考えが違うと判断され決裂する。 三菱の海運独占に対抗すべく栄一らが東京風帆船会社を発足すると、社員らを使って栄一のあらぬ風聞を流し、事業を頓挫に追い込む。明治十四年の政変で大隈が追放された後、政府の支援を受けた栄一らが新たに共同運輸会社を設立すると、両社は採算を度外視した熾烈な値下げ合戦を展開するが、その最中に病に倒れる。病床で弥之助に後を託し、日本の繁栄を願いながら死去。 岩崎弥之助(いわさき やのすけ) 演:忍成修吾 弥太郎の弟。 弥太郎の死後、三菱商会を引き継ぐ。苦渋の決断の末、共同運輸との合併を了承し、2年半に及ぶ激しい競争を収束させる。
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