中華人民共和国の成立と終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/09 09:09 UTC 版)
「中国長春鉄路」の記事における「中華人民共和国の成立と終焉」の解説
中国大陸で国共内戦が継続する一方、世界では冷戦の開始により、アメリカ合衆国とソビエト連邦の反目が始まっていた。ヤルタ会談の時点で既にその萌芽はあったが、この頃になるとヨーロッパ各国での共産党勢力伸長を防止するためのアメリカによる介入、東欧で共産党勢力による社会主義政権樹立のためのソ連の支援など、次第に対立は先鋭化して行った。 このため中国大陸での国共内戦も、背後に両国が関係していたことから次第に代理戦争の色を帯び始めた。そしてついにソ連は、中ソ友好同盟条約により親米政権としてアメリカの支援も同時に受けていた中国国民党への支援政策を見直し、共産主義政党である中国共産党支援へと方針転換した。 このことは国民党にとって大きな打撃となった。既に国民党は民衆の支持を失い始めていただけでなく、アメリカも日本の占領政策を優先し支援を縮小していた状況において、ソ連の支援までも失うことは、軍事的に大きな損失となったためである。 1947年4月以降、ソ連の支援を受けた共産党は満州全土で勢力を回復、国民党を攻撃し長春の周囲の鉄道を全て破壊、長春に駐屯する国民党を孤立させるに至った。この結果鉄道は壊滅し、翌1948年10月に瀋陽を再び落とされ長春を占領される頃までには、中国長春鉄路の業務は完全停止となった。 そして中国大陸の各都市を占領した共産党は、1949年10月1日に中国を統一し中華人民共和国を樹立。国民党は台湾に逃亡するという結果で国共内戦は終結した。 国共内戦の大勢を見たソ連は中華人民共和国と1950年2月14日に「中ソ友好同盟相互援助条約」を締結、軍事協力を含む両国の協力関係を確認した。戦災から徐々に復興していた中国長春鉄路に関しては「中国長春鉄路・旅順口・大連協定」が締結され、「対日講和が成立した後、あるいは1952年末まで中国長春鉄路を現状の体制で維持し、その後政府に返還する」と規定された。 1951年9月8日に対日講和としてサンフランシスコ講和条約が署名され、1952年4月28日に発効したことにより、「中国長春鉄路・旅順口・大連協定」の条件によって自動的に1952年末まで中国長春鉄路は生き長らえることになった。 1952年12月31日、中国長春鉄路が保有する鉄道資産が中華人民共和国政府に返還される期日となったが、朝鮮戦争の影響で実際の引渡業務は順延され1955年に完了、中国長春鉄路はここに解散した。 なお旧満鉄社員の留用は、食糧難と物価高騰により生活に困窮する状況の中で早期の解除が望まれた結果、1946年5月14日に壺蘆島から民間人とともに第一次帰還が実現した。1947年に旧総裁ほか幹部社員が解除され、翌1948年に残る社員の留用も解除されており、中国長春鉄路終焉時には一部を除いて日本人は帰国していた。
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