中立の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 14:22 UTC 版)
「ジョン・ロス (チェロキー)」の記事における「中立の試み」の解説
南北戦争はロスにとってネーションを一つに纏めておき、条約によって獲得したネーションの権利を守り、またネーション全体の福祉を保証するための試練となった。南部諸州がアメリカ合衆国から脱退してアメリカ連合国を形成したとき、以前の条約締結派の中核を形成していた奴隷を所有するチェロキー族がスタンド・ワティーの下に党派を形成し、新しいアメリカ連合国政府との条約締結を推進した。 1820年から1840年代に文化の変容や移住の問題に関してチェロキー族内部に厳しい意見の対立があり、1861年には統一を保つというロスの優先する関心を刺激した。さらにロスは「チェロキー族の人々が白人同胞に対して維持すべき関係は、アメリカ合衆国との条約を存続させることで確立されてきたことを理解していた。チェロキー族の土地に対する権利、自治政府および先祖からの土地を売ったことで上がる年金がすべてアメリカ合衆国との条約で確保されていた。もしチェロキー・ネーションがアメリカ連合国に加われば、これらが全て失われるであろうことも理解できた。ロスはアメリカ合衆国(北部)との条約と、アメリカ連合国に同調するチェロキー族のメンバーとの間の紛争を見ながら、ネーションを統一していくため、およびチェロキー族の権利が失われないようにするために、中立政策を選択した。 1861年2月、ロスはチカソー、チョクトーおよびクリーク各ネーション指導者の間に活発な運動を始めて、その政策を前進させ、条約で得た権利を守るためにアメリカ合衆国への忠誠を強調した。中立政策はチェロキー族が戦争の破壊行為から免れ、その貴重な権利を失う可能性を抑えるうえで巧みなやり方だったが、1861年7月までに「純血のチェロキー族と混血のチェロキー族の間に深刻な性格の問題が存在する」ということを知らされていた。
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