中独協定と鉄道開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 17:20 UTC 版)
1936年、中国の鉄道は、かつて孫文が思い描いていた10万マイル(16万キロメートル)とは程遠く、わずか1万マイルに過ぎなかった。さらに、これらの鉄道の半分は満洲にあり、日本が支配していた。中国の輸送の近代化が遅れていたのは、列強の都合によるところが大きい。1920年、イギリス、フランス、アメリカ、日本の銀行による「新四強国際借款団」の取り決めにより、中国への資本投資には制限があった。4カ国が中国に鉄道敷設のための資金を提供する場合には、他国の同意が必要と定められていた。さらには、世界恐慌で各国とも国力が落ちていたため、欧米日の列国といえども広い中国大陸を網羅する鉄道を敷設するための資金提供そのものが困難となっていた。 1934年から1936年の間の中独協定は、中国の鉄道建設を大いに進めた。華南地域と武漢地区を結ぶため広州と武昌を結ぶ粤漢線を完成させ、加えて浙江省杭州から湖南省株洲で粤漢線に接続する浙贛線とそこから南昌へ伸びる支線を1937年までに全通させた。これらの新線は揚子江南部の鉱山や工業地帯を華東・華南の中国沿岸と繋ぐことで中独両国の利害が一致したことから進められ、日中戦争でも軍事物資の運搬として使われた。更に株洲から貴州省貴陽を経て昆明を結ぶ新線も着工されたが、日中戦争の激化や中独合作の途絶・国共内戦により全通したのは中華人民共和国成立後になってからである(現在は滬昆線として一体化して運用されている)。
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