中原を彷徨う
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:54 UTC 版)
呂布は、董卓を討った事を袁術が感謝しているだろうと思い、彼を頼ったが受け入れられず、次に袁紹を頼った。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は精兵1万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていたが、赤兎馬に乗った呂布と、呂布配下の勇将・成廉、魏越が指揮する数十騎が1日に3, 4度も突撃して次々に張燕軍を討ち取ったため、数十日後に遂に敗れ、以後黒山賊は離散した。この戦いの後愛馬である赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという。その後袁紹に兵力の補充を要求したが袁紹はそれに応えず、腹いせに呂布の将兵は略奪を行なった。ついに袁紹の忌むところとなり、袁紹は刺客を送るが呂布の奇策により失敗した。その報せを聞いた袁紹は恐れをなし、城門を閉じて守りを固めたという。なお略奪事件については臧洪が「呂布は軍兵の貸与を申し出ただけであり、死刑に値する人物であっただろうか」と、陳琳への返書で述べている。 『後漢書』呂布伝では受け入れられた後、配下の略奪によって呂布が後難を恐れ袁術領を抜けたとする。 冀州を出ると張邈のもとに立ち寄り、別れの際手を取り合って共に誓いをたてた。その次は河内の張楊を頼る。張楊は、長安の意向を受け諸将と呂布を殺そうとした。しかし呂布が察知し張楊に自らの捕縛を教唆したため、張楊は表向きは李傕・郭汜に従う振りをしつつ、実際は呂布を保護するようになった。そのことを知った長安では、呂布の気持ちをなだめるため、呂布を潁川太守に任命したという。 『後漢書』呂布伝では『三国志』と異なり、袁術、張楊、袁紹、張邈、張楊の順に身を寄せたとする。 張邈は以前、袁紹と口論になり、袁紹は曹操に張邈を殺させようとしたことがあった。しかし曹操が袁紹に反論したので、張邈は曹操に恩義を感じ親友となったが、呂布の件も含めて、袁紹に色々と恨みを買っていたことから、袁紹の命で曹操に攻撃されることを恐れるようになったという。興平元年(194年)、曹操が徐州の陶謙を討つため兗州を留守にすると、曹操に叛意を持っていた張超と陳宮は呂布との兗州共有を張邈に提案し、彼を迎え入れ兗州牧とし、曹操に反旗を翻した。 張邈に迎え入れられた呂布は濮陽を奇襲し、夏侯惇を捕虜とするも、韓浩によって奪還された。また呂布が濮陽を落とすと多くの城が投降した。しかし荀彧・程昱・棗祗・薛悌等の守る鄄城・東阿・范だけは落とせなかった。 曹操が徐州から戻って来ると、呂布は濮陽に籠城する戦略 を取り、曹操が攻撃してくると呂布はこれを連破 した。しかし旱魃と蝗害によって兵糧が不足し、呂布は曹操に止めを刺し損ね山陽に駐屯した。 その後、呂布は1年以上に亘り激戦を繰り広げたが、兗州連合軍に太刀打ち出来ず 袁紹軍の協力を受けた 1千未満の曹操軍に、1万余りを率いて向かった鉅野で敗北した。呂布は夜中に逃れ、雍丘で一族と共に防戦中であった張超と、袁術に援軍を求めて寿春に向かっていた張邈と別れ、徐州を支配していた劉備を頼って落ち延びた。曹操最大の危機はこれで終わった。
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