世界レベルの開発をめざす
初めての液体ロケット「LS-A」の打ち上げ
1950年代後半から1960年代前半にかけて、宇宙開発は米ソを中心として世界的に急速な発展をとげつつありました。日本が世界レベルに追いつくためには、国をあげての体制づくりがせまられました。政府は宇宙開発審議会を設立し、1963年には研究の拠点として、科学技術庁の航空技術研究所に宇宙部門を新設、「航空宇宙技術研究所(現 宇宙航空研究開発機構(JAXA))」と改称しました。また、開発の場としては、同じく科学技術庁に1964年、「宇宙開発推進本部」を設立しました。これらの機関が取り組んだ最初の課題は、誘導装置付きの液体ロケットの開発でした。当初は手さぐり状態の研究でしたが、液体ロケット(L=Liquid)と固体ロケット(S=Solid)をつなぎあわせた2段式のLS-Aロケット打ち上げにまず成功し、続いてLS-Cへと引き継がれました。
種子島宇宙センターの誕生
1960年代後半、日本のロケット開発の中で大きくクローズアップされた問題が、ロケットの打ち上げ場所です。それまでは、防衛庁の新島試験場を借用するなどしていましたが、将来、大型ロケットを打ち上げるには、どうしても独自の打ち上げ場が必要になったのです。いろいろな候補地を検討した末、最終的に選定されたのは、打ち上げに有利な南方で、国有地が多く、周囲に海が広がる種子島でした。不便な交通、台風の多い気候といったデメリットもありましたが、それ以上のメリットがあると判断した結果の選定です。地元漁業組合との交渉も妥結し、1968年、種子島宇宙センターが誕生しました。
新たに発足した宇宙開発事業団でNロケット開発へ
種子島に宇宙センターが誕生すると、宇宙開発計画も具体的なものとなってきました。政府からは、宇宙開発推進本部に対して、「5年以内に実用衛星を打ち上げるロケットをつくる」という課題が与えられました。そこで立てられたのが、Q計画とN計画です。Q計画は、「1972年までに150kgの衛星を高度1,000kmの軌道にのせる」、N計画は、「1974年までに100kgの静止衛星を打ち上げる」というものでした。当時の日本の技術レベルからは、かなりきびしい計画でした。1969年10月、宇宙開発委員会は、計画発表とともに宇宙開発事業団(現 宇宙航空研究開発機構(JAXA))を発足させました。その後、アメリカからの技術導入の道が開かれ、Q・N計画はにわかに現実味をおびていったのです。
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