上方の役者絵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:32 UTC 版)
一方、京や大坂の上方においても、江戸には遅れたが役者絵の版行が行なわれるようになった。上方の役者絵は、まず絵本の体裁をとって版行され、西川祐信や大森善清の手がけた作があり、いずれも享保のころのものとされる。また寛保2年(1742年)に出された一枚摺りの役者絵も残っており、上方の一枚摺り役者絵としては現在のところ、この時期に製作されたものが最上限である。 やがて明和になると、上方で役者絵に合羽摺りの技法が行なわれるようになり、手彩色ではない色の付いた役者絵が製作されるようになった。この時期に上方で役者絵を描いた絵師としては岡本昌房が知られ、合羽摺りによる一枚摺りの役者絵を残している。しかし当時江戸ではすでに紅摺絵を経て錦絵が製作されており、上方においてもそれら江戸の錦絵を「江戸絵」と称して賞翫し、上方の役者絵の人気は江戸絵に圧され気味であった。上方で錦絵が製作されるようになるのは、まだ後のことである。 だがすでに岡本昌房の役者絵に顔の描き分けが見られるように、上方でも『絵本水や空』(安永9年〈1780年〉刊)や『翠釜亭戯画譜』(天明2年〈1782年〉刊)のように、実際の役者の顔や特徴を捉えて役者を描こうとする動きが江戸と同様に起っていた。『翠釜亭戯画譜』の序文には、春章・一調の『絵本舞台扇』と『絵本水や空』それぞれの長所をとって役者を描いていると記す。この似顔役者絵の流れは、この後の流光斎如圭や松好斎半兵衛らの描く役者絵に受け継がれていったのである。なお上方における錦絵摺りの役者絵は、寛政3年(1791年)11月の流光斎の作が上限として知られている。また上方でも役者の日常などを描いた役者絵が版行された。 天保の改革では上方でも役者絵の版行が一切禁じられることになり、天保13年(1842年)から五年余り、大坂で役者絵は版行されなかった。弘化4年(1847年)になって大坂で一枚摺りの役者絵が版行されるようになるが、それは取締りを憚って中判の紙に役に扮した役者の姿を描き、役者名や役名、芝居の題名なども記さないものであった。上方の役者絵においてこうした縛りが完全になくなったのは、明治に入ってからのことである。
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