七年戦争での軍歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 05:50 UTC 版)
「ジョン・エリオット (西フロリダ総督)」の記事における「七年戦争での軍歴」の解説
1755年に対仏戦争(フレンチ・インディアン戦争、七年戦争)が勃発すると、エリオットはヴァンガードに乗船して参戦、1756年6月にはビスケー湾沖でフランス船の航行を妨害した。ビスケー湾での任務は12月まで続いたが、悪天候により大した成果を挙げられず、1757年1月29日にはプリマスに戻り、2月の配置替えで戦列艦マールバラに配属された。マールバラは3月10日にポーツマスを出港、5月17日にジャマイカのポート・ロイヤルに到着したが、カリブ海の微風で航行が思うようにいかず、戦闘に全く参加できず、10月にはマールバラの大砲が取り外された。エリオットは配置替えを求め、三等少尉(third lieutenant)としてオーガスタ(艦長アーサー・フォレスト(英語版))に配属された。以降オーガスタは多くの戦功を挙げたが、1758年6月には大規模な修理が必要な状態になり、エリオットは同年7月にスループ船ヴァイパー(艦長ハウスマン・ブロードリー(Housman Broadley))に転じた。1759年1月30日にブロードリーがカプ=フランセ沖での航行中に病死すると、エリオットは2月1日まで臨時艦長を務めた。同年4月5日にスループ船ホーネットの海軍大尉に昇進した後、6月に帰国の道につき、8月末にシアネス(英語版)に到着した。 本国では姉エリザベスがチャールズ・コックス(英語版)(後の初代サマーズ男爵)と婚約しており、兄エドワードはコックスと海軍卿(英語版)の初代アンソン男爵ジョージ・アンソンの関係(アンソンの妻エリザベスはコックスの伯母にあたる)を利用して便宜を図り、これによりエリオットは帰国後の1759年9月4日にスループ船ホークの艦長に任命され、9月27日にプリマスでホークに乗船した。10月を船員の確保に費やした後、11月に出港したが、12月9日にフランス沖でフランスの私掠船デュク・ド・ショワズール(Duc de Choiseul)との戦闘に敗れ、降伏を余儀なくされた。ホークの船員はサン・マロに連行されたが、アンソンと兄エドワードの親族だったこともあり、1760年1月末には早くも捕虜交換に向けた交渉が始まり、エリオットは同年4月2日にファルマスに到着、そこからプリマスに向かい、6日に到着した後は同地でデュク・ド・ショワズールとの海戦をめぐる軍法会議に出席した。エリオットは軍法会議で無罪判決を受け、4月25日に海軍大佐に昇進、26日にはシアネスで次の配属先であるフリゲートのゴスポートに乗船した。 ゴスポートでは1760年5月から10月までバルト海における護送船団の任務に就き、8月14日にはフランスの私掠船マルキ・ド・レード(Marquis de Leede)を撃破して、捕虜にされていたイギリス船員を救出した。この功績で10月13日にフリゲートのコヴェントリー(英語版)の艦長に任命されたが、12月3日には早くも役目を終えた。同年11月21日にフリゲートのテムズ(英語版)の艦長としての辞令を受けたが、エリオットがテムズのもとに到着したのは1761年3月23日のことだった。1761年4月よりバイロンの配下として艦長を務めたが、6月にウェサン島とブレスト沖の封鎖艦隊に加わり、1762年3月末にプリマスに戻った。1762年4月に秘密任務を受けてマデイラ諸島、カナリア諸島、アゾレス諸島の間を巡航し、敵軍の私掠船への奇襲を目指した。同年11月に帰途につき、リスボンに立ち寄った後1763年1月2日にプリマスに到着した。
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