七年戦争の勃発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 04:40 UTC 版)
「ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)」の記事における「七年戦争の勃発」の解説
1756年に入るとイギリスとロシアの接近を恐れたプロイセン国王フリードリヒ2世(大王)がイギリスに接近し、ウェストミンスター協定を締結。これに反発したロシア・オーストリア・フランスが接近を開始した。イギリス国内のフランス脅威論は高まり、1756年5月にイギリスはフランスに宣戦布告した。さらに同年8月にプロイセンがロシア・オーストリア・フランスを敵に回してザクセンへ進攻したことで七年戦争が勃発した。 イギリス軍は開戦間もなく英領ミノルカ島をめぐる戦いでフランス軍に敗れ、北アメリカでも敗戦を重ね、劣勢に立たされた。フォックスは野党からの攻撃を恐れてニューカッスル公内閣を見限り、庶民院院内総務職を辞任した。フォックス以外で庶民院を統制できる実力者はピットしかおらず、ニューカッスル公はピットに協力を要請したが、ピットはそれを拒否した。そのため内閣は1756年11月にも総辞職を余儀なくされた。 植民地の情勢に明るく欧州大陸よりも植民地を重視するピットは、ハノーファーや欧州大陸しか関心をもたなかったジョージ2世とは大変仲が悪かった。しかしピット以外に会期の迫る議会を乗り切れる政治家はなく、ジョージ2世もピット中心の内閣の組閣を認めるより他になかった。
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