ルクセンブルクにおける移民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 11:27 UTC 版)
「ルクセンブルクの歴史」の記事における「ルクセンブルクにおける移民」の解説
1871年のドイツ帝国成立は、ルクセンブルクにおいても転機となった。特にプロイセンが普仏戦争に勝利してロレーヌ地方を獲得したことにより、ザクセン、ロレーヌ、ルクセンブルクの各地域が一大工業地帯と化し、さらにロレーヌで鉄鉱石の鉱床が発見されたこと(これはルクセンブルクまで続いていた)、ザール、ロレーヌで石炭が発見されたことにより、近代製鉄が開始された。そのため、ルクセンブルクはドイツの協力の元、工業化が促進されることとなった。 1879年、ドイツ帝国が自由通商政策を取り入れると、ルクセンブルクの製鉄のほとんどがドイツへ輸出されることとなり、製鉄を中心とした産業がルクセンブルクの基幹産業と化し、そのためにそれまでルクセンブルクの中心産業であった農業の近代化が遅れることとなった。そして1820年代から始まっていた海外移民が加速されることとなり、その兆候は第一次世界大戦の勃発まで続いた。産業革命後は人々の流出が収まったかのように見えはしたが、その実、ルクセンブルクの工場で働く移民が増加しただけのことであり、ドイツ人、イタリア人、フランス人、ベルギー人らが流入、製鉄業に従事する労働者の60%が外国人と化し、その大半がドイツ人であった。そのため、ドイツ化の懸念が発生していた。 ルクセンブルクにおける外国人比率1875年1880年1890年1900年1910年1922年1930年1935年1947年1960年1966年1970年1981年1990年総人口 205,158 209,570 211,088 235,954 259,891 260,767 299,933 296,913 290,922 314,889 334,790 339,841 364,602 378,400 外国人人口総人口に占める割合 5,8953% 12,5436% 17,9909% 28,98812% 39,72315% 33,43613% 5,83119% 38,36913% 29,14210% 41,51613.2 56,73316,9 62,50418,4 95,78926,3 104,00027,5 ドイツ人外国人人口に占める割合 3,49760% 8,41267% 12,29668% 1493152% 21,76255% 15,50146% 23,57642% 16,81544% 7,52525.8% 7,94119.1% 7,95014% 7,78912.5% 8,8519.2% 9,0008,7% イタリア人外国人人口に占める割合 711% 2192% 4393% 7,43226% 10,13826% 6,17919% 14,05025% 9,26824% 7,62226.2% 15,70837.8% 24,90243,9% 23,43337.5% 22,25723.3% 20,40019,6% フランス人外国人人口に占める割合 85315% 1,0859% 1,4258% 1,8957% 2,1035% 4,33513% 4,6698% 3,4789% 3,66013% 5,00312.1% 7,16812.6% 8,43013.5% 11,94012.5% 12,80012.3% ベルギー人外国人人口に占める割合 1,35323% 2,54820% 3,23418% 3,87713% 3,96410% 3,69511% 4,0807% 3,2739% 3,64513% 5,23212.6% 5,96810.5% 6,47010.4% 7,8548.2% 9,4009% ポルトガル人外国人人口に占める割り合 - - - - - - - - 00% 260% 1,1472% 5,7459.2% 29,30930,6% 34,00032.7%
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