ラップランドの戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 10:25 UTC 版)
「ラップランド戦争」の記事における「ラップランドの戦闘」の解説
フィンランドとソ連の停戦協定により、フィンランドはドイツとの外交関係を断絶、公式に全てのドイツ軍が1944年9月15日までにフィンランドから撤退するよう要求を出さなければならなかった。その後も残ったドイツ軍の部隊は武装解除してソ連に引き渡さなければならなかった。しかし、ビルケ作戦における努力にもかかわらず、ドイツ軍が期限内に撤退することは不可能であり、フィンランドはドイツ軍の撤退に3か月を要するとの見積もりを出した。しかも、ソ連が同時にフィンランド軍の大半の武装解除も要求したため、それを行いながらドイツ軍と戦うことは困難を極めた。トルニオ地域の住民を除き、ラップランド住民のほとんど(合計168,000人)がスウェーデンとフィンランド南部へ疎開された。疎開は戦闘が始まる以前にドイツ軍とフィンランド当局が協力して行った。 ソ連の要求を受け入れると決断する前に、フィンランド大統領カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムはアドルフ・ヒトラーに手紙を書いた。彼は手紙で「過去の数年において、私たちがドイツ軍を侵略者や圧制者として扱うことを導いた出来事はなかった。私たちはフィンランド北部におけるドイツ軍の現地民と当局に対する態度は私たちの歴史に正しく誠意を持った関係のユニークな例として書かれると信じています。今回の戦争が勝利の冠をあなたにもたらすことがなくても、どのような形であれドイツという国は今後も存続するでありましょう。しかし、たった400万人のフィンランドでは敗戦で国自体が亡くなってしまうことは十分ありえます。私は我が人民を戦争から連れ出すことを自らの責務であると考えています。私はあなたが寛大にもフィンランドへ与えた武器をドイツ人への攻撃に転換することができませんし、そうすることもありません。私は、たとえあなたが私の態度を非としたとしても、私と全てのフィンランド人と同じように、事態を重大化せずに以前の関係を打ち切るよう望み、努力することへの望みを保持しています。」と書いた。
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