ライン・デルタをめぐる攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 06:58 UTC 版)
「フリースラント・フランク戦争」の記事における「ライン・デルタをめぐる攻防」の解説
メロヴィング朝のキルペリク1世 (在位561年 - 584年) の時代は、フランクの文献によれば「フリース人とスエビ族による恐怖の時代」だった。実際フリースラントでは、600年ごろにフリース人がアウドルフのもとで戦争に勝利したことを記念する硬貨が発見されている。フランク王国で内乱が絶えなかったこともあり、フリース人は南方へ大きく勢力を伸ばした。 しかし630年までに、状況は変化した。ダゴベルト1世がフランク王国を再統一し、アウデ・レイン川以南を再征服したのである。この時フランク人はフリースラントにキリスト教をもたらし、ユトレヒトに教会を建てた。ダゴベルト1世の死後フランク人は征服地を維持できず、ドレスタットを含むライン・デルタ中央部は再びフリース人のものとなった。フランクの硬貨生産は中止され、ユトレヒトがフリースラント王の新たな住まいとなった。 アルドギスル率いるフリース人は、ローマ帝国時代に築かれた国境の要塞をめぐってフランク王国の分国ネウストリアの宮宰エブロインと衝突した。アルドギスルは巧みな機動戦略によりフランク軍の侵攻を食い止めた。 690年代に、宮宰ピピン2世率いるフランク人はドレスタットの戦いでアルドギスルの後継者レッドボットを破った この戦いは不明な点が多いが、結果としてフランク人はドレスタットを回復し、ユトレヒトなどの城を奪った。この時期聖ウィリブロルドがフリースラントに大司教区もしくは司教区を設置している。また711年にはピピン2世の長男グリモアルド2世とレッドボットの娘テウデシンダが結婚している(p794)。 レッドバッドの後継者はよく分かっていない。フランク王国宮宰カール・マルテルのフリースラント侵攻を受け、王位継承に混乱が発生したと考えられている。フリース人はまともに抵抗することが出来ず、カール・マルテルはライン川を越えてフリー川まで征服した(p795)
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