メロ占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/14 07:08 UTC 版)
「ポルトガルによるバンダ・オリエンタル侵攻 (1811年-1812年)」の記事における「メロ占領」の解説
ポルトガルはリオグランデ・ド・スルとバンダ・オリエンタルの国境に2個師団を配置した。そのうちマヌエル・マルケス・デ・ソウザ(ポルトガル語版)率いる1個師団はバジェ(英語版)の山々に軍営を設けた。この師団はリオ・グランデ(英語版)からの歩兵1個大隊、軽騎兵2個大隊、サンパウロ軍団からの民兵で騎兵4個大隊、リオ・グランデからの騎馬民兵1個大隊で構成された。もう1個の師団はイビラプイタン川(ポルトガル語版)岸にあるサン・ディオゴ軍営(São Diogo)に駐留、指揮官はジョアキン・シャヴィエル・クラド(英語版)元帥(後のサン・ジョアン・ダス・ドゥアス・バラス伯爵)とした。この師団は歩兵2個大隊、サン・パウロ軍団の騎馬砲兵2個大隊、竜騎兵1個連隊、リオ・パルド(英語版)からの騎馬民兵1個大隊、グアラニー族槍騎兵1個中隊で構成された。2個師団の総指揮官は元帥に昇進したディオゴ・デ・ソウザであり、総勢3千人の「バンダ・オリエンタル平和維持軍」となった。この軍勢はポルトガル生まれのディオゴ・デ・ソウザを除いて全員ブラジル人だった。 1811年4月、クラドの師団はサン・ディオゴ軍営を離れてマルケス・デ・ソウザの師団と合流した。6月9日、ベラスコがクーデターで失脚、逮捕されたため、ポルトガルは味方を1人失った。クーデターは結果的には孤立主義者ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシアの独裁政権を生み出した。この損失は数日後にブエノスアイレスによる北西のアルト・ペルーへの第一次遠征(英語版)がウアキの戦い(英語版)で王党派軍勢に敗れて撤退したことで補われた。7月17日、平和維持軍はモンテビデオへの進軍を開始した。ディオゴ・デ・ソウザは進軍しつつ、バンダ・オリエンタルのポルトガル話者に従軍を呼び掛けた。 一方、スペインのホアキン・デ・パス中佐(Joaquin de Paz)はバンダ・オリエンタルのメロで軍を指揮していたが、彼はメロの住民を追い出して村を焼くとの命令を受けた。パスは命令に従いたくなかったため、ディオゴ・デ・ソウザに手紙を書き、ポルトガル軍を駐留させることで破壊命令が執行できないようにした。マルケス・デ・ソウザは軽騎兵2個大隊と竜騎兵2個大隊をメロに派遣した。派遣軍は7月23日に国境を越え、同日にメロに到着した。平和維持軍の本軍は3日後に到着した。ディオゴ・デ・ソウザは道中にスペインの前哨地を占領するための小部隊を派遣した。補給の不足と冬の天候によりポルトガル軍の進軍は遅く、厳寒により多くの兵士が死亡、病気になった兵士も数多くいた。ポルトガル軍の兵站には馬6千頭、牛1,500頭、台車140台が必要だったが、実際に提供されたのは半分以下だった。
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