メジャー会社へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:51 UTC 版)
1937年(昭和12年)8月26日、東京市世田谷区砧(現在の東京都世田谷区成城)にあったポストプロダクション「写真化学研究所」とその子会社の映画スタジオ「ピー・シー・エル映画製作所」(Photo Chemical Labより)、大澤善夫が立ち上げた京都の映画スタジオ「J.O.スタヂオ」(ゼー・オー・スタヂオ)と阪急の小林一三が前年に設立した東京の映画配給会社「東宝映画配給」の4社が合併して設立された。初代社長には、ピー・シー・エル映画製作所創立者の植村泰二が就任した。トーキーに特化した東西2つの映画スタジオをもち、東京・日比谷を中心とした興行網をもつ強力な会社ができたのである。 この合併によって、旧ゼーオー・スタヂオは時代劇を製作する「東宝映画京都撮影所」(現存せず)へ、旧ピー・シー・エル映画製作所および旧写真化学研究所は現代劇を製作する「東宝映画東京撮影所」(現在の東宝スタジオ)と名称を変更、このデュアル・プロダクションによりさらに映画製作に力を入れた。 当時の「東宝映画東京撮影所」には、戦後「東洋一」と呼ばれるようになった巨大なNo.8およびNo.9ステージ(1955年3月完成)こそまだなかったが、同年5月に中型のNo.6およびNo.7ステージ、前年の1936年(昭和11年)4月に小型のNo.3およびNo.5ステージを建て、「ピー・シー・エル映画製作所」の当初よりもすでに拡充された設備をもっていた。「東宝映画」となって2年後の1939年(昭和14年)5月22日に本社を銀座7丁目大日本麦酒本社内に移転し、これに加えて1940年(昭和15年)3月に東宝映画第二撮影所(のちの新東宝撮影所、現在の東京メディアシティ)を建設・開所している。また、1941年(昭和16年)9月19日に東宝映画京都撮影所は閉鎖・売却され、同年10月24日には豊田四郎をメイン監督としたトーキー現代劇を製作していた東京発声映画製作所と南旺映画と大宝映画を合併、「東宝映画第三撮影所」(のちの新東宝第二撮影所、現在のオークラランド)とした。時代劇も東京でまかなえるようになった。 1942年(昭和17年)2月1日、映画産業の戦時統制により社団法人映画配給社が設立され、同社団社長に植村が就任したため、東宝映画社長を退任し、その席を副社長の大橋武雄に譲った。 1943年(昭和18年)8月30日に演劇・映画の興行を行う同系列の「株式会社東京宝塚劇場」と合併案をまとめ、同年12月10日に現在の「東宝株式会社」となった。なお、東宝の自社製作を行っていた「株式会社東宝映画」は、TOHOスタジオ株式会社の旧社名であるが(2020年に商号変更)、この会社は1971年(昭和46年)に東宝の製作部門を分社化して設立されたもので、当記事の会社とはまったく別の東宝連結子会社である。
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