マルチメディア事業の失敗
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1970年代よりエレクトロニクス玩具に注目しており、玩具事業ではこれを積極的に手がける。しかし1982年の「LSIショック」でビデオゲーム機から撤退。1985年に任天堂のファミコンに参入する。[要出典] 1980年代は一般玩具の需要はすでに成長が見込めず、「任天堂さんにおんぶさせてもらっている」と語っている。「それがいやなら自分でハードを作ればいい」とも語っている[要出典]。1997年にはたまごっちをヒットさせる。同年、父親が1984年に設立した「財団法人日本おもちゃ図書館財団」の理事長を引き継ぐ。 1990年代に成長戦略としてマルチメディア事業を重視するようになり、1996年にマルチメディアゲーム機「ピピンアットマーク」を販売するも失敗、「マルチメディアは短期で成功するのが難しいと感じた」と語る。このような中、セガとの合併によるセガバンダイの設立が浮上、合併会社の社長に就任予定と報じられる。[要出典] しかし自ら「ワンマン」とする山科誠の強引な合併構想は社員の反発が強く破談、この騒動の責任をとり社長を辞任するも会長として経営の一線に留まる。[要出典] その後、ピピンの事業を諦めざるを得なくなり、その清算による1999年3月期の赤字決算の責任をとり会長職を辞する。2004年には取締役からも外れた。 バンダイ社長の頃から「茶屋二郎」のペンネームで小説を発表しており、日本BS放送社長に就任するまでは小説家として執筆に専念していた。[要出典] 早くから現在では主流となるメディアとの融合を見据えた商品展開を手掛けており、今日の同社の根幹を成すといっても過言ではない。また、映像事業は現在では主要な柱の一つに成長した。変革をためらい、80年代に新規事業に進出しなかった他社が軒並み業績を低下させたのに対して対照的である。[要出典] (株)Long Tail Live Station代表取締役会長のほか、(株)山科ホールディングス代表取締役、(財)鈴渓学術財団評議員、(NPO)パートナー逗子代表などを務めている。[要出典]
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