マナセ族とは? わかりやすく解説

マナセ族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/27 09:34 UTC 版)

マナセ」の記事における「マナセ族」の解説

イスラエル部族で、失われた10支族の1支族ヨセフの子マナセを祖とする。ヤコブ祝福与えた際、手を交差してエフライム長子とし、マナセ次位置いた創世記 48:13-20)。これは、マナセ族がエフライム族より小さな役割を果たすことを示していると考えられる申命記 33:17)。マナセ族は7家族から成りイスラエル人エジプトから出た1年後調査では、20歳超えた男子は32200人であった民数記 1:3435)。約40年後、荒野モーセによって数えられ人数は52700人であり、エフライム族の数を上回っていた(民数記 26:28-34、37)。荒野においては、マナセ族はペダツルの子ガムリエルの指導者によって、エフライム族ベニヤミン族と共に西側宿営張った民数記 2:18-24)。 モーセは、ヨルダン川東側領域のヘシュボンの王シホンバシャンの王オグの国を滅ぼした後、その征服した土地を、ヨルダン川西側領地征服する戦いにも参加するという条件付きで、ルベン族ガド族とマナセ族の各部族与えられた(民数記 32:31-33申命記 29:7、8)。その際ギレアド土地バシャン全土はマナセ族に与えられた(民数記 32:3940申命記 3:13-15)。残りの半部族は、ヨルダン川西側領域で、西は地中海、南はエフライムに、北はアシェルに、東はイサカルに接していた(ヨシュア17:10)。また嗣業の土地として、ベト・シェアンイブレアムドルエン・ドルタナクメギド周辺都市与えられた(ヨシュア記 16:917:11)。 士師ギデオンはマナセ族の出身であった士師記 6:15)。ダビデがツィクラグにいた時、マナセ族の千人隊長の幾人かが彼の味方について(歴代誌12:19-20)、ヨルダン川西側から18000人が、東側から何千人ものマナセ族がやって来てダビデイスラエルの王に立てた歴代誌12:31)。後に偶像礼拝傾き東側のマナセ族はアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世によって補囚された(歴代誌上 5:23-26)。

※この「マナセ族」の解説は、「マナセ」の解説の一部です。
「マナセ族」を含む「マナセ」の記事については、「マナセ」の概要を参照ください。

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